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マイスター・ハウス群を後にしてデッサウ駅に戻り、テルテン・シードルンク方向の路面電車に乗り込んだ。
デッサウ・バウハウス時代の代表的な創作物の一つであるテルテン・シードルンク(テルテンに建てられた勤労者向け集合住宅)がそこで暮らす人々の生活とどのように接合し、どのような表情となっているのか。デッサウを去る前に、それをみてみたかった。 電車の中で、乗車賃の支払い方がわからず、難儀していると、杖をついた女性が、席から立ち上がり、手振りで丁寧に教えて、席に戻った。無愛想だけど、外国人でも困っていれば助けてくれる方達なのだと思った。 最寄りのプラットホームで降り、幹線道路を渡り、都市郊外の住宅と団地と空き地の混ざり合うような風景の中を5分ほど歩くと、中層アパート群が現れた。 ![]() ![]() ![]() それは、建設時からの長い時を経て、マイスター・ハウスより、はるかに生活感に満ち、庭を介し自然との連続性を有しているように見えた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 春が来れば、テルテン・シードルンクの庭や農園でも、そちこちで手入れする人達の姿がみられるだろう。庭に可憐な花が咲けば、いくらかは摘んで家にしつらえるだろう。庭にイチゴや木の実がなれば、通りかかった子ども達は、手を伸ばして摘んで、口に放り込むだろう。農園で育てた野菜を食べれば、そのあでやかさや美味にうれしくなり、身近に庭や菜園があることの豊かさを感じることだろう。 庭や菜園をつくり、生活を彩り、家族の食生活を豊かにしようと、植物達と丁寧に付き合えば、どのような環境をつくれば植物達が美しく、健やかになるかわかるようになってくる。落ち葉や刈草や生活残渣で堆肥(腐植)をつくり、それを土に入れてやれば植物は頑健であり農薬もいらず、味の濃い、栄養価の高い野菜が育つことに気づいてくる。子どもがいれば、子ども達がときおり庭の花々や虫達に向けて驚くべき視線や理解を持ち、新鮮で健やかな野菜とそうでない野菜を目や舌で見分ける素地を育てていることにも気づいてくる。 そして、意識の領域にあるか、無意識の領域にあるか、言葉になっているか、言葉になっていないかは別として、そのような経験的理解を起点として、暮らし方や住まいがどのようにあるべきかを考え、また、そのためには社会や流通や生産の仕組みがどのようにあるべきかを考えるようになるだろう。 向こうの谷に家族と移り住んで、5年、自分の考え方の変遷を振り返り、そう考えるようになっている。 デッサウ・バウハウスの校舎も、マイスター・ハウスも、テルテン・シードルンクも美しいと思う。それはそれぞれの方々の変化する自然・社会環境と流転する人生の中から意志の力で生み出された、一筋の直線である。愛情であり、科学であり、広義の理性である。 私はこう思う。これらの美しいデザインを生み出したバウハウスに集った方達の少年の日の思い出には、庭や菜園の情景があったのではないかと(そして、このことについて、それぞれの方々のライフヒストリーを研究し、確認することには、大きな意味があることだと思う)。しかし、そのデザインの大切な背景は、流通される段階で、捨象されたのではないかと。だとすれば、産業革命以降の、経済学誕生以降の、現代社会に是認された、経済的効率性以外はすべて排除する流通の仕組みと思想と行為にこそ問題があるのではないかと。 そして、テルテン・シードルンクの庭や農園は、住宅に移り住んだ後、一度、捨象された住居の背景を再び取り戻すために、人々が長い時間かけてつくった、生活を豊かにするための文化であり環境なのではないかと。 私は思う。流通も小売も様々な職人も建築もデザインも、そして農業も、すべての領域に携わる人々の背景に自然とともにある日常があることが、暮らしを美しく豊かにするための道具やデザインや社会の仕組みが産み出され、それが理念を変容させずに、さらに、美しく、生活を豊かにする道具やデザインや社会の仕組みを創発させていくために大切なことではないか。 ドイツの詩人、ヘルマン・ヘッセは『幼少時代』という短編に、幼少時代を思い出す青年の回想を描写している。すべての人の記憶の中に、このような情景があることこそが、21世紀のすべての領域に必要なのだと考える。そのいくつかを抜粋してこの記を終わりにしたい。 ![]() ・ある朝、私は一冊の本と、ひときれのパンをポケットに入れて家を出て、気の向くままに歩いて行った。少年時代にいつもそうしたように、私はまず家の裏へ入った。そこにはまだ日が当たっていなかった。父が植えたモミの木立、私がまだほんの幼い、細い若木だったのを覚えているモミの木立ががっしりと高くそびえ、その下には淡褐色の針葉が積もっていた。その縁どり花壇には、母の植えた宿根草が生えていて、豊かに、楽しげに花をつけていた。その中から日曜日ごとに大きな花束が摘まれたものであった。そこには小さな花が朱色の束になって咲く植物があって、「燃える恋」と呼ばれていた。また、細い茎にハート型の赤と白の花をたくさんぶら下げる一株のやわらかな多年草があって、これは「女性のハート」と呼ばれていた。またもうひとつの多年草の株は「鼻持ちならぬうぬぼれ」と呼ばれていた・・・それらのあいだに、やわらないとげをもった肉厚のクモノスバンダイソウと、かわいらしいマツバボタンが地面をはっていた。(p18) ・この長くて狭い花壇は私たちのお気に入りで、夢の庭であった。そこには、二つの丸い花壇に生えているバラ全部よりも私たちにはすばらしく、愛らしい思われたいろいろな珍しい花が生えていたからである。ここに日が射してきて、キヅタにおおわれた壁を照らすと、ひとつひとつの草花がそれぞれまったく独特のおもむきと美しさを見せるのだった。(p19) ・・・・オダマキは思い切り伸び上がって、その四重構造の夏の釣鐘を鳴らしていた。アキノキリンソウのまわりと、青いフロックスの花にはミツバチが羽音も高く群がり、びっしり生い茂ったキズタの葉の上を、小さな茶色のクモがいくつもせわしげてにすばやく行ったり来たりしていた。アラセイトウの上の空中では、胴体が太く、ガラスのような羽をした、あの敏捷で不機嫌そうな音を立てて飛ぶ蛾が震えていた。これはスカシバとか、ホウジャクとか呼ばれていた。(p19) ・不思議な、あるひそかな不安を感じながら、私は少年時代に喜びを味わった、なじみの場所を見まわした。私は少年時代に喜びを味わった、なじみの場所を見まわした。・・・それらは昔とは違った顔をしていた。花たちさえもつきることのないその魅力をいくぶんか失っていた。(p19) ・・・・今度はもぎ取ったブナの小枝をかじった。苦い、香ばしい味がした。高いエニシダの生えている鉄道の土手のところで一匹のみどり色のトカゲが私の足ものを走って逃げた。すると、また私の心に少年の気持ちがふっと目覚めた。私は、・・・待ちぶせしたりして、ついに日に当たって温かな、おくびょうなトカゲを両手に捕らえた。私は、・・・少年のころの狩りの楽しみの余韻を味わいながら、そのしなやかで力強いからだと固い足が私の指のあいだで抵抗し、突っ張るのを感じた。だがそれからよろこびは消えてしまった。・・・それを持っていてももう幸福感はなかった。私は地面にかがみこんで、手を開いた。(p20) ・汽車が輝く鉄路を走って来て、私のそばを通り過ぎた。それを見送った私は、一瞬非常にはっきりと、ここではもう私の本当のよろこびが花咲くことはない、と感じた。そして、あの列車に乗って世の中に出て行きたいと、心の底から思った。(p20) 旅から戻り、長男坊主は、身の回りにも、より一層、石の世界をみいだすようになった。小川に、地面がむきだしになった斜面に、流域のあらゆる石が堆積する河口に、石とそれを生み出している地動を見出しているようだ。 拾われた石はあるものはそのままで、あるものは丁寧に研磨されて、みつめられている。 彼は、どのように少年の日の思い出をもち、それは大人になった彼の思想や行為やつくられるものに投影されていくのだろう。できる限り、わたしはそれをみつめていきたい。 ![]() ▲
by mukouno-tani
| 2013-10-27 09:57
| 野研ノート(デザイン)
2013年9月。デッサウは、大地から切り離された現代のビル群のコンセプトの誕生の地であっただけでなく、戦闘機の開発の地でもあったことを知り、その符合に、とても驚いた。
2012年の12月、長男坊主が石との縁を深めるために同伴したドイツでの旅の終わりに、どうしてもバウハウスの校舎やシードルンクを一目みたく、私が彼を連れ立ってデッサウを訪れたのだった。 デッサウは、家族で観た、宮崎駿監督の「風立ちぬ」に再び登場していた。そして、第二次世界大戦で使用されたドイツの数々の軍用機を生み出したユンカース社もそこにあったことを知った。描かれていた飛行機は、紙飛行機も軍用機もとてもカッコよく、美しく、子ども達はとても気持ちを動かされ、長男坊主も末娘も、早速、空き箱から厚紙を得、いくつもの紙飛行機をつくりはじめた。 ![]() 私もこれまで知らなかったユンカース社の軍用機や生みの親である博士のことについて調べはじめた。写真でみるユンカースの軍用機のフォルムは美しい。そして、それはデッサウ・バウハウス校舎でみた、箇所箇所の美しさと似ているように思う。規格化、量産化される前の、個人の洗練された技能が反映された美しさなのだと思う。 ![]() ![]() ![]() これほどまでに、子ども達の心に響き、つくることに駆り立てるほど、美しいデザインを生んだユンカースが軍用機の量産に派生してしまったのか。同じ疑問を、私はバウハウスにも持っていた。一目みて美しいと思う数々の形を生み出すバウハウスが、人々の生活に劣化のサイクルを強いる生活環境としてのビル群のデザインの震源になってしまっているのか。シンボルのようにある、バウハウス・デッサウ校舎だけでなく、バウハウスの建物と自然を含む周囲の環境との関わりを見つめれば、少しは何かわかるのではないかと思った (もちろん、私の乏しい知見の範囲の中で個人的見解を改めるということに過ぎない。しかし、フィンランドにて、アールトやアスプルンドのデザインした建築群とその周囲の環境の関係性、スイス・ヴァルスにて、ペーター・ズントーの建築とその周囲の環境との関係性を見、ウィリアム・モリスの建物と自然との鎹としての庭の役割を学び、個人の中では、建物をそのように捉えるようになった)。 イダーにて 小6から中1へ、長男坊主は自分のチャンネルを探す旅にでた。彼が魅入られた石達が世界中から集まるイダー・オーバーシュタインから旅は始まった。私は彼の同伴者となった。 メノウ鉱山のあったイダーには、中世から研磨職人が集まり、世界中の宝石の原石の集積地となった時代があった。彼によれば、今日、原石の殆どがブラジルで採掘され、研磨もそこで行われるようになりつつあり、イダーの職人は途絶えようしているのだが、今でもイダーのカットやポリッシュのきめ細かさは比肩するものはない。 彼の隣で私がみた、イダーは、その宝石博物館でみたメノウ石や数々の宝石の原石達が街の中心であった。自然の中から切り出された鉱山に街が付随しているのであり、鉱山との自然との関係性の中に街が形づくられていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() それは、階段や門構えや窓枠や庭の佇まいにも反映されていた。 ![]() ![]() ![]() ヴァイマールへ 2日後、息子と私はヴァイマールへ旅立った。 ヴァイマール駅をでて、薄く雪の積もる旧い建物の連なる街を歩くと、旧いものに抗うように、あるいは新たな調和に挑むように、それは出現した。 同じトーンに落ち着いているヨーロッパの古い街並みの風景、古レンガ、凸凹でありながら調和を乱していない屋根の連なり、有機的な表情のある窓枠、起伏する地形にあわせてうねる石畳。その中を走る一筋の直線、それがヴァイマール・バウハウスであった。 ![]() ![]() 古い街並のフォルムを際立たせる、あるいは意識させるようにそこに存在していた。ヴァイマールという街のインスタレーションのようであった。 ![]() バウハウスの研究者である、マリー・イミュラース氏は、大野ゆり子氏のインタビューに応え、ヴァイマール・バウハウスについてこう述べている(X-Knowledge HOME 2002 AUGUST Vol.08)。 ・ワイマールは古くからの城下町として栄え、・・・ゲーテ、シラー・・・、バッハ、リスト、・・・マルティン・ルター、・・・クラナッハなど、そうそうたる顔ぶれがいます。それだけに保守的な土地柄です。(p29) ・「バウハウスは、ドイツ語のBau(建築、建設の意)と、Haus(建物の意)を組み合わせた言葉です。・・・、あらゆる造形芸術が目指すべき目標は「建築」にある、という思いが込められています。彼は・・・職人が一丸となって教会を建設した中世のBauhuette(建築職人組合)に憧れ、そこから名をとりました。中世の教会では、彫刻や絵画、室内装飾がそれぞれ最高水準の個性を示していながらも、「教会」という一つの建物のもと、見事に調和していますよね。グロビウスはこの職人同士の協力関係を新しい芸術家のあり方として、20世紀に復活させようとしたのです。(p28) ・・・グロビウスは、・・・バウハウス宣言で『芸術家と職人の間には違いはない。この両者の間に傲慢な壁を気築いている差別意識をうち崩そう』と唱えました。・・・就任当時33歳だったグロピウスは、アカデミズムを支える保守派全てを敵に回したわけです。こうした保守派の教授連は学校を去り、ワイマールでことごとく、グロピウスの反対勢力に回ります。しかし、グロピウスは、工作連盟時代からの人脈をフルに利用し、ゲルハルト・マルクス、シュレンマー、クレー、ファイニンガー、カンディンスキーなど、当時のアヴァンギャルドの最高の人材をバウハウスに集めることに成功しました。それまでの美術学校との大きな違いは、教授(プロフェッサー)という称号が廃止され、親方(マイスター)と呼ばれるようになったことです。『生徒』は『徒弟』という身分からスタートし、見習い期間を無地に終えたものだけが、一人前の『職人』になるという、中世ギルドの用語が、『先生と生徒』という代わりに取り入れられました。(p28) ・設立当初の1919年は敗戦後で、ドイツのインテリの間で戦争体験のトラウマが癒えていなかったのだと、私は考えています。だから手工業とかカテドラル建築のギルドなど、どこかロマン漂うものに憧れていた。技術発展の行き着くところが、大量殺戮兵器だということを目の当たりにしてしまっただけに、技術に対して戸惑いがあった。そのトラウマが瘉えるのに数年かかった訳です。ファグス工場においてガラスと鋼鉄を用いた革新的な建築を、戦前(1911)に建てていたグロピウスが、バウハウス創立当初、モダニズムという観点から後戻りし、表現主義的な時代を迎えるのには、多分に戦争の影響があると思います。そのトラウマが消え、工業との提携へと歩んでゆくグロピウスの考えに賛同できないマイスターもいました。例えば、イッテンは、工業との提携を嫌い精神の重要性を唱え、やがてグロピウスと意見が対立し、バウハウスを去っていきます。(p28) (インタビュアー)―バウハウスは国立学校なので、チューリンゲン州政府から補助金を受けていた。創立から4年しか経っていないのに、補助金に見合う学校なのか証明するように、官僚から、嫌がらせのように展覧会を迫られますね。1923年のこの展覧会の成果はどうだったのでしょう?(p29) ・インフレの真っ最中ですから、経済的には成功しませんでしたが、ドイツ全国はもちろんのこと、ヨーロッパ中からジャーナリスト、評論家、業者があつまり、『バウハウス』の名が世界に知られることになりました。バウハウスのPR戦略の上手さというものも他に類をみない、時代に先駆けたものでした。展覧会パンフレットはシュレンマーがコンセプトを作り、配色をバウマイスターがチェック。カンディンスキーの壁画工房の中に『展覧会広告部門』が作られ、いろいろなポスターが作られました。(p29) (インタビュアー)ー展覧会の成功にもかかわらず、バウハウスはワイマールでは補助金のカットによって存続できなくなり、デッサウがバウハウスの新天地となる・・・(p29) 社会の経済化と工業の勃興と鉄とコンクリートに代表される新しい素材を用いるテクノロジーの浸透を背景に、ヴァイマールの古くて美しくて、だからこそ保守で堅牢なもとの相克から生まれたムーブメント、それがヴァイマール・バウハウスではないかと、感じている。バウハウスは、運命と、古いものとの対立の回避と、より新しい概念や形への実験を受け入れる場所を求めて、デッサウに旅立った。 しかし、私と息子は、ヴァイマール校舎に向かう道程、ヴァイマールの街角にて、その後に向かったデッサウにはおおよそないであろうものを発見した。それは石と昆虫の標本を扱う店であった。 土産物屋かなと見過ごしてしまいそうな、店の中は、博物学的で、かつ美しい、鉱物や化石や蝶の標本で満たされていた。店先の露台には、色とりどりの紙の小箱がならび、その中に研磨されてない鉱物や研磨された鉱物や化石が、その学術名が書かれた手作りの付箋とともに並べられていた。 息子は、愛おしそうに、長い時間かけてそれを見つめ、意を決して幾つかの小箱を手にし、店の女性に渡した。女性は、それを丁寧に包装し、「名前の書かれた付箋も大切にするのよ」と、ジェスチャーした。 ![]() ![]() 彼は感動した。「日本にはこれほど大切に石としての石の魅力を大切にしているお店はない」と。私は彼に話した。「本当に石と虫の標本だけでお店がやっていけているのかはわからない。もしかしたら、他にも生業を持っているかもしれないと。しかし、たとえそうだとしても、あれだけ石を大切に扱い、お客さんにもそのことが伝わるような店を開いている女性の生き方、それがあたり前に街角にあることは、なんと豊かなことだろうか」と。また、「イダーで泊まったプチホテルには研磨された石がいたる所に展示してあった。思い返せば、あの若き主人も石の研磨をライフワークとしている人ではなかったか」 「そのような生き方のなんと豊かなことか」と。 ヴァイマールはこのような生き方のある街でもある。古い街にはそのような豊かさを生み出す力もある。その古くて美しいものと、新しきもののの接合面を創作環境として持ち得たからこそ、バウハウスは創発性と求心力をもったのではないかと、後解した。 ヴァイマール・バウハウス校舎は、古い街に溶け込むようにしてあり、デッサウ・バウハウスのような抜きんでた象徴性はもっていない。しかし、同時に周辺の建物や地域社会との関係性を失ってはいないように見えた。 ![]() デッサウへ ヴァイマールを朝、旅立ち、昼頃にはデッサウに着いた。 前の番から振り続けた雪は、デッサウの道の上にも5cm近く積もっていたが、我々は駅を出て、デッサウ校舎を目指した。 ドイツ帝国期の州都であった時代もあるらしいが、第二次世界大戦前から工業都市として拡大を続け、大戦中は多くの爆撃も受けたためであろうか、道すがらの街並みから受ける印象は、ヴァイマールと大きく異なり、新しい街のような印象を受けた。かつて暮らしていた大阪市の北の方の、農村部が開かれてつくられたすこしゆったり新しい郊外の様子に、どことなく雰囲気が似ていた。デッサウ・バウハウス校舎への道際には、その様な街の住宅や集合住宅が並んで建っていた。そして、建物群は、バウハウスに関わりのあるであろう、オフィスや公共施設に徐々に変わり始めた。 ![]() ![]() そして、デッサウ・バウハウスは姿を現した。 ![]() ![]() ![]() マリー・イミュラース氏へのインタビュー’(大野ゆり子氏による)において、当時のデッサウの状況やグロピウスの取り組んだ建築事業について、次のように述べられている(X-Knowledge HOME 2002 AUGUST Vol.08)。 ・デッサウは当時、飛行機や機械の製造業で発展しはじめた工業都市で、リベラルで芸術に造詣が深い市長が、バウハウスを町おこしのために積極的に誘致しました。その背景には工業発展によって、短期間に人口が膨れあがり、どうにかして工場労働者の住宅を確保し、都市設計を進めなければならないという深刻な住宅問題がありました。技術を用いて建築の合理化を進める建築家グロピウスの手を是が非でも借りたいという切実な願いがあった訳です。そのため、バウハウス校舎の建物、そこから徒歩10分の距離のマイスターたちの家なども、デッサウ市の予算で建築するという好条件で、グロピウスは迎え入れられました。(p29) (インタビュアー)―デッサウの人口は1925年に5万人だったのに、1928年には8万人と、短期間に3万人も増加したというデータがありますね。このような急速な人口増加に対応するため、グロピウスはどんな取り組みをしたのでしょう?(p29) ・1926-28年にかけて建設されたデッサウ南部のテルテンに作られた団地群が、この問題を解消する実践的な取り組みでした。当時、かなり劣悪な環境を強いられていた工場労働者たちに対し、自分たちで購入できるような手頃な価格で、小さいスペースを最大限に生かした人間らしい住環境を提供する、というのがグロピウスの目的でした。作られた団地は、数種類のパターンがあるのですが75平方メートル前後で、壁に最大限の収納スペースを取るなど、狭いなりの工夫がされています。コストを抑えるため、・・・2階建て住宅を8戸まとめた棟が一度に建設されたのですが、作業に空き時間ができないよう、工程は事前に綿密に計画されました。ちょうど自動車会社のフォードがベルトコンベアで車を製造され始めた時期で、それと同じ発想で家を組み立てるグロピウスの団地事業は、『フォード式建築』と呼ばれたりしました。(p29) (インタビュアー)―・・・デッサウのバウハウス校舎は、建築的には、どこが革新的なのでしょうか? ・ガラスの建材が有名ですが、それ自体よりも、例えばマルセル・ブロイヤーの椅子、マリアンネ・プラントのランプなど、内装にバウハウス各工房の才能が結集したこと、工房、学校、学生寮という3つの棟が機能によって分かれるという構造が特色です。1階に舞台のある講堂があり、その舞台裏は学食に続いていて、ここはお祭りのための空間でした。グロピウスは「建築とは生活の流れに形を与えることだ」という言葉どおり、この校舎の中に作業場、住居、食堂、体育館、パーティ会場、舞台という空間を与え、一つの世界を作り上げたのです。(p29) イノミュラース氏の述べるように、デッサウ・バウハウスの形とは、内装に、あるいは細部にあるように思えた。廊下や階段やドアの取っ手や窓枠やバルコニーやボタンが凛として美しく感じた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 他方、冬、雪の降る中での風景だからであろうか、建物の周囲の風景との関係性は希薄であるように感じるのである。それを主観的にでも確認することが、デッサウに赴いた私の主題であった。 マイスター・ハウス バウハウス校舎を発ち、雪道をマイスターハウス(教員用住宅)へと歩いた。再びゆったりとした新興住宅地のような集合住宅と個人住宅の連なりの中を15分ほど歩くと、徐々に建物と建物の間隔が長くなり、疎らな針葉樹の林の中に点々とマイスターハウスが現れはじめた。 ![]() ![]() ![]() あるものは住まわれており、あるものは建設中であり、公開されている建物は閉館中であったが、建物と周囲との関係性は何となく掴むことができたように思う(もちろん、冬場であり、春~秋は全く別の風景があるのかもしれないが)。 それは、かつて旅したスイスやイタリアやフィンランドやノルウェイの農村部の住居と庭や菜園の風景とは違っているようにみえた。マイスターハウスにとって、建物周辺の杉林とは建物の装飾あるいは付随物であり、外構的な位置をもすら持っていないのではないか。暗い針葉樹の木立の中にある、白く直線の沢山ある建物は絵的に美しい。しかし、住居の周囲にはいきいきとした自家菜園や庭の面影らしきものは見かけられなかった。そして、針葉樹はかつての砺波平野の防風林のように焚付にも燃料にも使われているという実用的な機能を期待されているものではないようでもある。 ![]() ![]() ![]() ![]() マイスターハウスについてこのような対談がある(X-Knowledge HOme 特別編集NO.3)。 ・バウハウスというのは近代都市から生まれて来た純粋なモダニズムの産物だと思われているところがあるのですが、実はいくつもの別の顔を持っているんですね。建築にしろプロダクトにしろ、想像以上に環境といったものと共振しているという。デッサウにしても松林や森があって、ちょっとあるくとエルベ川が広がっていくところにたどり着くとか、バウハウスはある種の特別な環境の中で生成されたという視点が成り立つと思うんですよ。ベルリンやフランクフルトといった都会ではなく、グロピウスはなぜヴァイマールという町に最初のバウハウスをつくり、その後もいくつか大都市から誘いがあったのを断って、次になぜデッサウに移ってきたのか、と。(p82) ・マイスターハウス(教員住宅)を見てきましたが、例えばテラスが周囲の自然環境と相互浸透していたり、外側にある自然環境と還流することで意味を生んでいるとか、木々の動きとか光と陰とか、繊細なデザインの中に吸収しようとする意志があるのではないかと思えるんですね。(p82) 住居のアメニティデザイン、あるいは借景という手法の観点からすればそうなのだと思う。他方、それは、例えば周囲の木質資源が燃料や材料として丁寧に使い尽くされる、生活残滓が土に戻され日々の食生活を豊かにするために再利用されるといった、日々の暮らしの中での住居と周囲の自然の関係性を捉える視角とは異なる。 19世紀初頭の農業から工業への産業の主軸の転換、燃料革命、都市経済の拡大と都市人口の膨張の速度は、イギリスの産業革命時よりさらにすさまじいものであったのかもしれない。バウハウスのアーツ・アンド・クラフツ運動における、暮らしと周囲の自然との関係性回復を目指したライフスタイル改革の視角は、ウィリアム・モリスが取り組んだそれより、住まいに留まっているように感じる。 ジル・ハミルトン/ペニー・ハート/ジョン・シモンズ著『ウィリアム・モリスの庭』に次のような文章がある。 ・モリスは、世界はかつてないほど均質化してきた、そのたに地域の独自性を確立する必要性が生じている、としている。場所の名、言葉、方言、食べ物、ビール、建築そして景観における誇りは、かつても現在もますます貴重になっている。同様に、その場所のほうとうの中心となる、地域の植物相はきわめて重要だった。(p20) ・芸術に対する彼(モリス)の革新的な取り組み方を方向づけたのは、中世のイギリスだった。それはまた、園芸学に対する彼の態度を確固とさせたのである。”美と用”という彼の金言通りに、日陰を作るあずまやがあり、果樹、野菜、薬草、花が繊細に組み合わせれた中世の庭の実用性に彼は感嘆した。(p14) ・・・・彼がとりわけ望んだのは「工場の汚れた裏庭の土地を庭に転じること」だったのだ。(p14) ・庭園デザインと植物遺産に関するモリスの原則は、十九世紀末と同様に今日でも効力がある。彼は、自然と形式を、また昔ながらの植物と新しい導入植物を、完璧なまでに統一するよう努力したのだった。・・・伝統的な材料と地元に生える植物を使うことによって、工業化されたイギリスを再生する方法を彼は探求した・・・(p16) ・モリスは、公園に建てられたパラディオ式の邸宅をまったく嫌った。なぜならばそれは、その地域との関係性や連続性がないからである。彼は石でも塀でも、納屋や建物であろうと、その区域の伝統からもたらされる構築物を好んだ。土地言葉の使用を初期の頃から提唱した一人として彼は、地元の材料を使うことで、地域の独自性に誇りをもつことを再確認したのである。(p20) ・モリスのねらいは、どこにでもある場所の美しさ、とりわけ地域の植物相の美しさを広く知らせることにあった。(p22) ・・・・講演「最善を尽くすこと」(一八七九年)で、彼(モリス)は造園家たちをこううながした。「花を咲かせる場所を、自由に面白く生長する植物で満たすのです。そしてあなた方が願う複雑さを出すことは「自然」に任せるのです・・・」(p24) ・モリスにとっては、家は誰の人生においても著しい特徴だった。「もし、最も重要で同時に最も重要で求められている芸術品は何か、と問われればこう答えるだろう、美しい家、と」。庭は、家を周囲の地域とつなげるための花の延長線として機能して、建物を「まとう」ものでなければならい、と彼は確信していた。(p17) ・モリスの庭は機能的な場所だった。庭からもたらされた食物の食事をし、そこでリラックスし、そこで遊んだ。彼の見解では、庭は家庭のために食べ物を生産するべきであった。(p32) ・ケルムスコット・マナーの食卓には、庭からの新鮮な産物がのった。季節のさくらんぼ、苺、ラズベリー、スグリ、林檎、杏、そして自家栽培の緑の野菜だった。マートン・アビーの仕事場にさえ、大きな菜園があり、アスパラガスなどのごちそうをもたらした。(p33) モリスは、産業革命により荒廃した生活環境や暮しの質や、自然との関係性の、暮しにおける復興の形を見出すために、中世の庭と暮らしを研究し、それをその当時の”いま”にデザインし直した。 デッサウのバウハウスにはそのようなプロセスがあったのだろうか。このことを明確にするためには、更なる資料の収集と勉強が必要である。 ▲
by mukouno-tani
| 2013-09-10 06:42
| 野研ノート(デザイン)
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