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拝啓 森の花畑の守人様 家の外は、春の嵐です。 かみさんが大好きなほころびかけた桜の花の蕾が風にゆれています。 まだ、新芽を出していない紅葉に雨の水滴がたくさんついていて、リョウブの木柵の向こうにいつつもの水仙の花が頭を擡げています。 そのなかで、印象的だった出来事をお伝えします。 1つは、向こうの谷の20年来の大雪で2日間、家族が家から社会に出掛けられない日があったことです。 冬とは思えない暖かい日が続き、不安に思っていた矢先、これまで経験したことのないような寒波と雪の降り様でした。1日目の昼から降り始めた雪は溶けることなく、つもっていき、2日目の夕方、家に帰ってみると、トタン屋根の雪が玄関上に大きく積もり非常に危険な状態になっていました。夕方から暗くなるまで、かみさんと屋根から雪落としをして、家を外から眺めれば、家の中にいる子どもと目には見えない結界で隔てられたようないいようもない不安と、無機的な表情の向こうの谷の玄関がありました。そして、再び雪が降り始め、2日間、車はおろか歩いても外界に出るのが難しい状況になっていました。 1つ目は、電話やインターネットが遮断されていないにも関わらず、また除雪車が家に至る道に雪の重みで倒れた倒木を処理しながら少しずつしかこちらへ上がっ下さっている状況であることもわかっているにも関わらず、なんとなく世の中から忘れられているのではないかという強い不安感が生じたということです。だから、2日後、遠くから重機の音が聞こえると家の外に駆け出し、遠くに除雪車と人の姿をみたときには本当にうれしかったのです。ときおり、「何であんな山奥に住んでいるの?」と聞かれながら選んで住んでいる向こうの谷の住人でありながら、私(達)は人との日常的な関わりも必要としているのだと改めて認識しましたし、それは自分の志向ではなく、親の選択した住まいで暮らしている子ども達にとってはなおさらのはずだ、と思い直しました。そのことにより気をつけておかねばならないと。 2つ目は、田畑や山から産物を頂きながら田舎に暮らすことは、基本的に災害など物流が寸断されたような状況に強いストックのある暮らし方なのだということです。向こうの谷の家ではお米は作っていませんが、家の周りの畑で普段食べる葉菜類や根菜類やイモなどは作っています。また、暖房に薪ストーブを利用しているため家の周りの雑木林から薪をとったり、集落のおじいさんから太いコナラやクヌギの原木を買ったりしています。だから、秋は結構忙しく、かみさんは冬に食べる野菜の栽培と収穫を1日刻みでやり、せっせと大根や白菜やイモ等を蓄えていきますし、私はほぼ毎日、冬に向けて割った薪を積み替え、焚き付けになる粗朶や木っ端を集めたりしています。米は作っていないのですが、かみさんが家の前の田んぼの草刈りと水の管理を請け負っていて、手間賃をお米でもらい、冬に向けて家に蓄えていきます。なので、大雪に閉じ込められても食べ物や暖房に不安は抱きませんでしたし、たとえさらに1週間閉じ込められるとわかっても、大慌てすることはなかったでしょう。あと、調味料である味噌と醤油とそして贅沢を言えば甘味(砂糖分)という所でしょうか自給も含めてストックを考えたらいいのは。そしてこれからの気候も経済も政治も不安定な時代のことを考えると、このことの大切さとやり方は子ども達に伝えておいた方がいいと思ったのです。 このように初春に冬のことを振り返りながら、春の準備をしていた折、私の故郷である熊本で大きな地震が起こりました。2回目の大きな揺れの4日後、私は熊本市内に暮らし、付近の小学校に避難していた老いた両親を島根に一時避難させるため、熊本に行き、避難所に1泊させて頂いた後、一緒に向こうの谷に戻ってきました。10日後、両親は体力をある程度回復し、熊本に帰って行き、その後は、彼らが進める家や家を支える石垣の修理等の相談をし、今後のことについても話し合いながらお互いに少し落ち着いて来ています。その間、知人や職場の同僚が、被災地の後片付け等のお手伝いに行って下さっています。私はどうすべきか、まずは動いたらいいのではないかと思いながら、家のことも仕事も手に付かない日々が随分続きました。そして、昨日、ようやく思い至りました。 「これからも故郷には何度も行くだろう。しかし、僕は島根で、子達の育ちに伴走しながら、より厳しくなることが予想される子達の世代を意識してやりかけていることを、しっかりやっていこう。」と 少し、いまやりかけていること、やっていこうとしていること。 ・暮らしと自然をつなぎ直すための庭づくりの方法 ・在来種と薬用植物、食用植物を中心にした強く、美しい庭づくり ・土の地面がない所からでもはじめられる庭づくり 果樹や野菜や花木を育てるための木製植栽コンテナの試み ・家族が自立して暮らしていくための畑づくりの方法 ・ニュージーランド箱とコンポストを活用した堆肥づくり ・ニュージーランド箱の利用方法の改善(ページ上部) ・自然栽培の導入の試み(無農薬、無肥料栽培)(ページ下部) ・自然との関わりの取り戻しと家族が自立して暮らしていくための道具と家具づくり ・キッチンロケットストーブを組み込んだ家の軒下に設置できる庭のアウターキッチンづくり(ページ下部) ・竹を利用した水きり棚 ・経済とつきあっていくための研究とソフト・アプリの開発 ・田舎の子育て世帯の家計調査 ・田舎に暮らしながら経済とつきあうための生活設計ソフト ・田舎に暮らしの子育て家族の働き方と暮らし方研究 <向こうの谷の家> <働き方と家族の時間調査> ・田舎が経済とつきあっていくための地域経済手法研究 <田舎に暮らす家族の食料費研究><地域経済済循環設計ソフト> 守人様 この文章を書き始めたのが3月中頃、いまは6月の中頃です。随分時間が経ってしまいました。 この間、庭も畑も家もだいぶ様子が変わりましたが、家族に引き継ぐための技術として実用に向けた積み重ねをしていっています。少し、その様子をお伝えして、終わりにしたいと思います。 家の南側の木陰の庭(食用山菜×花木) 大きな紅葉の木の下で 手前はコゴミ、ギボウシ、中央左はビバーナム、奥はシャクナゲ 家の南西の庭 黄色はセントジョンズワート、奥の白はトラノオとギボウシ、その他でフジバカマ、アキチョウジ、サルビアガラニチカ、アキチョウジ 家の東側の庭兼草刈り場(湿地) 手前はオオデマリ、中央はコゴミ 家の南側の畑の端にある、在来種と薬用植物、食用植物の組み合わせた小さな庭(2016.6.20) 左前 アスパラガス、ミツバ、 左奥 ウド 中奥 チダケサシ、ポポ―、ラ・フランス、 右前 ヒオウギ、右奥 クズベリー、ブラックベリー 自然栽培(木村秋則先生)に学び、無肥料での果樹や野菜の栽培への移行実験 リーフレタス(春~初夏)×ヘアリベッチ×ししとう(夏~秋)(最初に草堆肥施肥) 不耕起・無肥料栽培(不耕起4年目、無肥料2年目) トウモロコシ(粉用)× 大豆(晩生) (キャベツ、レタス、ブロッコリー) 草マルチで草抑えと土壌改良を続けている家の南側の畑(敷草は6年目、草はとなりの田んぼの刈り草などを利用) 子どもやかみさんと共用できるように改造をはじめた本棚と書斎 (アスプルンドのStockholm Public Libraryと読み聞かせの部屋をモチーフに、少年少女期、青年期を意識して) 子どもの育ちを中心にした働き方、経済との付き合い方についての研究 ※後で写真入れます。 作業部屋を子どもと一緒に子ども部屋に改修(準備段階) ※後で写真入れます。 子どもや仲間と共用できるように新たに整備をはじめた作業場 ※後で写真入れます。 #
by mukouno-tani
| 2016-04-07 07:48
| 家と庭
拝啓 森の花畑の守人様
2015年12月13日。分の単位で時間を気にしていないと仕事も家のこともまわらなくなる状況が長らく続いているため、あっとい間に師走が近づいてきたという感覚はないのですが、気を許せば家族や私のことを振りかえったり、手間をかけることを忘れたりすることが多くあります。 向こうの谷もいまのところは暖冬傾向で、一度雪が20㎝ほど積もったのですが、その後、暖かい日が続き、家の南側の池の周りは、再び落ち葉が敷き詰められた様子に戻っています。この落ち葉を庭木の根元に積んでいくことが、庭の土づくりや樹の根回りの雑草管理の大切な作業なので、また再び雪が積もるまで、こつこつと落ち葉集めをすることを日課にしようと思っています。 日課といえば、今年の春から、どんなに時間がなくても、朝、小一時間歩くことにしています。最初は普段負荷をかけることが少ない足や腰を刺激するつもりでやっていたのですが、歩いているうちに、効用は全く運動に留まらないことがわかりました。山道を歩いていると、季節と一つ一つの植物達の目ざめから眠りまでの変化が目に入ってきますし、それは全て私の植物や庭づくりの糧になっていきます。 それ以上に効用があるのは、朝ひたすら歩くという行為が、頭の中をリブートさせるということです。特に前日、忙しかったり仕事や人間関係の渦に身をおいたりすると、私の場合、その朝は昨日の続きを考えている混濁からはじまることが多いのですが、歩くことは”昨日の続き”を一度断ち切り、”今朝、新たにはじまること”こととして本来の自分の視点からすべてを捉えなおすことを促してくれるように思います。面白いことに、そのことは、朝玄関から出て目に山や樹々や田畑や朝の空の風景が飛び込んでくるとスイッチが入り、帰り道、長い坂を登り、有酸素運動が始まり、歩くことに身体が集中せざるを得なくなると始まります。そして、今では、このことが歩く主な目的になっています。 ところが、最近、大きな街に泊まる出張が続き、朝の山道の散歩ができず、せめて歩く機会をつくろうと目的地への移動がてら1駅か2駅の区間を歩くのですが、朝歩いても、私の頭の中のカレンダーはめくられないことに気づきました。私の頭の中はリブートされず、昨日の続きとして朝が続くのです。それはなぜか、考えてみたのですが、いまの所、それは歩く環境が全く違うからだと整理しています。つまり、山道を歩く朝は、昼間の人に囲まれた娑婆と重ならない山道の中で、自分と周囲の気配だけに集中するのです(そのうち有酸素運動がはじまれた自分の身体だけに集中することになります)。しかし、街の中を歩けば、それが”仕事場所へのいき道がてら”ということもあり、やはり昼間の人間環境と社会の動きをダイレクトに連想させる娑婆の姿(情報)が目に飛び込んできます。しかも他人とはいえ、他の人の動きに常に注意していなくてはならない。これでは僕の場合、切り替えることは難しいな、とそう思うのです。 開高健先生は『とにかく手と足を使いなさい』といいました。ジュリア・キャメロン氏はThe Artist's Wayの『心を動かすために、体を動かす』という項で、「…創造性を回復しはじめている人でも、行動に踏み切れる人は少ない。自分の体を使って創作できるようになるために、まず、自分の体を動かすことを覚えることだ(p235)」と述べています。これは創作でなくても、日々のことをいきいきと行っていくためにも重要なことで、そのための準備運動は、それが山道の散歩でなくても、プールの水の中の泳ぎでも、自分が演奏する音楽でも、茶を点てたりコーヒーを豆を挽いて入れることでも、いいのではないかと思います。 最近、家族や仕事の時間の中で色々と考える機会を持ちながら、また、幾つかの本と出会いながらもう一つ、考え至っていることがあります。それは『働いて得たお金で必要なもの・サービスを買って使うことと、直接、自分の時間と体を使い、必要なものつくったり・事柄を行ったりすることは等価ではないのではないか』ということです。 たとえば、ここに家族の時間の使われ方についての2つのグラフを作ってみました。 1つ目は、「1日15分子どもの英語の勉強をみる」と「週1回の英語塾に月謝を1万円払ってみてもらう」のグラフです。 1日15分子どもの勉強をみるとかかる時間は月7時間になります。週1回の英語塾に月1万円支払うために時給1500円で働くとしたら月7時間働くことになります。はたしてこれは同じことか。 塾だとどうなるか。もちろん親以上に上手にやる気を引き出しながら指導して下さる可能性は高いし、もしかしたら親身になって学習以外の子ども様子も気遣ったり、1人の大人として色々なことを教えてくれるかもしれません。しかし、塾の目的はあくまで点数の向上だから、点数をとるために必要なテクニカルなこと以外は捨象されることが多いだろうし、「せっかく理解しているのに、ピリオドがついてないと点数がとれないからもったいない」という所に留まることの方が多いと思うのです。しかし、月謝代を稼ぐために、親は自分で教えるのと同じ程度の時間を使わねばならない。 塾にはお世話にならない方がいい、なんでもかんでも親がやった方がいいと主張している訳ではありません。むしろ高学年になればなるほど、他の大人にお世話になった方が格段にいい場面が多いと思います。ただ、子どものために塾にやる→塾にやるためにはお金がいる、お金がいるから働かなくてはならない→働くから子どもとの時間が少なくなる→子どもの様子がわからなくなるという構図を無意識に辿るのは、私の場合、少し考えながらいこうと思うようになっています。 2つ目は、「ファンヒーター×灯油利用」と「薪ストーブ×薪利用×灯油(ファンヒーター)の補完的利用」のグラフです。 これは向こうの谷の家の場合で1年間のスパンで利用するのに費やす必要な時間を計算してみたものですが、ファンヒーター×灯油利用の場合は36時間、薪ストーブ×薪利用×灯油(ファンヒーター)の補完的利用で45.3時間となりました。これをどう考えればいいか?まずは、計算が少し複雑なので、下記に書き出してみます。 ▶ファンヒーター×灯油利用の場合は1年間の灯油代4.5万円(1ヵ月9千円×5か月)、1年間のファンヒーター減価償却費9000円(2台45000円で5年間使用)として、合計5.4万円を稼ぐには時給1500円で36時間必要という計算です。 ▶薪ストーブ×薪利用×灯油(ファンヒーター)の補完的利用については、向こうの谷の家では私が忙しくて、薪の原木(玉切り前のもの)の量の2/3を購入していること、私の書斎で補完的にファンヒーターを使用しています。かかる時間を構成要素別に計算すると次の①~⑥通りです。 ①薪づくりに必要な時間(原木をチェンソーで玉切、斧で薪割)=15時間(1日0.5時間×30日) ②薪原木入手に必要な時間 1/3 木の伐倒(山手入れ)~玉切 4.5時間(1回1.5時間×3回) 2/3 原木の購入 1.8万円 → 12時間(1.8万円/1500円) ③灯油購入に必要な時間(補完的利用)=3.7時間(年間5600円(1600円@月×3.5月)/1500円) ④薪ストーブ購入・メンテに必要な時間=3時間(約30万円で購入+修理・一部部品取替え5万円で80年(2世代)利用を想定 → 35万円÷80年=1年当り4500円=1年当り3時間(4500円/1500円)。※部品交換など修理は溶接等で自前で行う前提) ⑤チェンソー購入に必要な時間=3.5時間(約6万円で購入、うち薪づくり利用は8割なので薪づくりでの負担は4.8万円。9年間利用を想定→4.8万円÷9=1年当り5300円=1年当り3.5時間(5300円/1500円)) ⑥チェンソー維持・燃料に必要な時間=1年あたり3.7時間 グラフの通り、単純にお金または時間の量を物差に比較すると、ファンヒーターの方がお得ですが、他方、子どもの体験や家族の時間といったことを物差にすると、毎年、向こうの谷にある、山の樹を倒し、薪にして、燃やして暖をとるロセスには、灯油を購入しファンヒーターを使用する形態では得ることのできないものが沢山あると思います(そしてこれらの事柄は、薪ストーブという道具だからではなく、山から燃料をとり、家で使用するという生活環境の中で発生ししているように思うのです)。 例えば、手が足りないので、今年から長男に割った薪を積むことをしてもらっていますが、「真剣に崩れないように積まないと崩れたとき近くに子どもがいれば大変なことになるよ」と言われ、長方形でない薪を安定して組もうと懸命になります。また、写真の後ろ側の薪積みは長男坊の最初の作ですが、この後、「薪積みの端が斜めだとトタンでで屋根を掛けても端から濡れて、肝心の冬に使えなくなるでしょ」と注意されています。 例えば、私自身も、樹を倒し、玉切りするためにケガをしないように注意することや、チェンソーのメンテや刃とぎ等の技術を身に付けていきますし、その作業を通じて緊張して物事に臨むことが強化されているように感じます。そして、私がこの手の作業をしているときには子ども達は近づいてきません。「樹を倒したり、チェンソーのような道具を使っているときは、予想できないことが起きるから、絶対に近づくな、話しかけるのは作業が止まったのを確認してからにしろ」と、何度も強くいわれているからです。彼らはきっと、同類の場面に遭遇すると、無意識に同様の注意をするのではないかと思います。 そして、これらのやりとりが日常的に、向こうの谷の私たち親子の間にあります。また、その場面の中で私達親は子どもが何がきちんとできるようになって何ができていないか確認することなりますし、また、子ども達も私達親の作業をみることになります。少し例に挙げてみるだけでも、これだけのことがあります。そして、それらのことと平行して、家の周りの森が手入れされ、そこから燃料を頂いているのです。 (なお、薪ストーブは万人向けの道具ではないと考えています。薪ストーブの利用を始めた理由の中でも書きましたが、基本的に家族の中に体力のある男性がいて、かつそれを使用する環境と自分でリスク管理する責任と技術がないと使用できないものだと考えています。そして、それにも関わらず”山から燃料をとり、家で使用するという生活環境”が大切なのだとすれば、我々はより使い勝手のよい道具の選択をすべきだと考えています。そのような道具として期待できるのは、例えばキッチンロケットストーブです。まだ途上で、暖房も含め日常生活の中に取り込むためにはさらなる道具としてのブラッシュアップが必要だと考えますが、例えば、焚き火小屋の管理人さん実際にこれを毎日使用されて、新たな形の素敵な暮らしが展開されています。私達も少しずつその方向に更に舵を切っていきたいと思っています。) 2つの小さな例に過ぎませんが、こういう風に具体的に考えすすめていくと、最初の問、『働いて得たお金で必要なもの・サービスを買って使うことと、直接、自分の時と体を使い、必要なものつくったり・事柄を行ったりすることは等価ではないのではないか』という問に対し、今後、私がやっていくべきことは、「あたり前にお金を払って購入している沢山の事柄を、とりあえず自分(達)の時間と体を使って作ったり・行ったりすることに置き換えてみて、そこで私と家族に起きることを確認してみること」なののだと再確認しました。このことも、引き続き試行錯誤と整理を進め、時折、お知らせしていきたいと思います。 この文章を書き始めたのは12月半ばでしたが、私の筆が遅々として進まない、4月の半ばになってしまいました。新たに、家族生活の中での買うことと作ることの違いについて考えはじめたので時間がかかったのかもしれません。 この間にも向こうの谷にも様々なことがありましたが、そのことはまた折にふれて書いていきたいと思います。 向こうの谷の周囲の山々ではコブシが満開で、もあと半月位で山桜が咲きそうです。 春になりました。 #
by mukouno-tani
| 2015-12-13 09:37
| 子育ちと環境
拝啓 森の花畑の守人様
2015年9月24日 ようやく薪の玉切りが終わりました。昨年より凡そ10日遅れです。これから手早く割り、積んでいかねばなりませんが、ともあれ、冬籠りにへの1つ目の作業が終了しほっとしています。 北西の畑では8月末にかみさんが播いた大根と小松菜がほとんど虫にも食われず育っています(小松菜は大根の株間に播かれています)。葉の色がそれほど濃くないのがわかるでしょうか。虫食いがなく、葉色が濃い黄緑色なのは、土中の腐植が未熟でなく窒素が過多ではないいい状態になったためでないかと考えています。ちなみに元肥は米糠と油粕で作ったぼかしと草木灰のみで今回は最初から土がふかふかしていたので草堆肥も使わなかったそうです。この畑も3年前は鍬の刃が跳ね返されるほど固く、ヒルガオや藪がらしが繁茂していたのですが、いまは雑草はハコベなどになっています。 今年は、これら山の植物の苗場づくりにも着手しました。いままで向こうの谷の山の際の植物達を掘り取っては移植していたのですが、苗数が追い付かなくなってきたので山野草の繁殖の勉強も兼ねて、畑の隅に4m×4mの防草シートを張った苗場をつくり、山からアキチョウジ、キバナアキギリ、ノコンギク、ウツボグサ、オオデマリ、ホトトギス、ハギなどの枝を取ってきてはさし芽をしています。どのような土の配合がいいか、どのタイミングでやればいいかなど、1つ1つ試してみているのです。 併せて園芸種のさし芽もためしてみています。ベルガモットは大き目のポットに深挿しの方がいいようだし、フロミスはなかなか根がでないので少し待った方がよいなど、試した種類だけコツがわかってきす。 サルナシもさし芽にも成功しました。この植物は藤のように強く樹にからみつくことはせず、太くてゆったりと蔓をのぼらせしていい塩梅なので、来春には家の周囲の林縁に移植して、樹に這わせてみようと思っています。 そう。実生からの栽培も試みはじめています。まずはアヤメやギボウシやオミナエシから。どの程度芽がでて、花が咲くのにどの位時間がかかるでしょうか。 こうして時折、ブログを書き足していますが、はや早11月中旬となりました。この間、11月初旬には向こうの谷は美しく紅葉し、そしていまは落ち葉の季節に移っています。今年の紅葉は本当に鮮やかで、家の周りの色とりどりのモミジやタラやナラをお伝えしたかったのですが、無常にもそのときは、寝ても覚めても頭の中に仕事のことがある状態が続き、そのことをお伝えすることができませんでした。 もう少し日々のこととして書ける状況をつくりたいし、そのためには、さらに仕事との付き合い方や時間の使い方を工夫せねばなりません。最近、気づいたのですが私にとっては日々こうして書いてること自体が気持ちの栄養にもなっているようなのです。 名残惜しく思うので、今年の向こうの谷の紅葉の写真を2つ載せておきます。そして、改めてこの写真をみて「人生は一度しかないのだらから、この時期に、私や家族の時間がゆっくり流れるようにしよう」と、そう心に誓いました。 片や、向こうの谷では降り積もる雪に囲まれた生活がはじまる冬にむけて暮らし方も少しずつ変わっていっています。日暮れの時間がはやまり、雨の日が多くなるにつれ少しずつ外の作業の時間が減り、屋内での大工などの時間に置き換わっていきます。 長男が15、次男が13になり、手先も随分安定してきたようにみえるので、今年から、息子達に屋外での薪づくりの作業や屋内での大工仕事を手伝わせみています。いま屋内では長男が縁側の廊下の床張りをやっています。 床を張らせてみると、彼がいま物事に向かうとき、どの位の気持ちの精度をもって臨んでいるか、ものをたのまれるときどんな対応をするのか、なんとなく感じとれるような気がします(あくまでも感じですが)。わからないとき先に確認するか、板の裏表の使い方や角の合わせ方はどうか。これは裏を返せば、そのような日々の所作や仕事の仕上がりにも通じる大切なことを親である私が子達に伝えることができる場面でもあると気づきました。 薪積みも11月上旬には終わりました。向かって右側の薪積みは長男作です。後ろの方の薪積みの端が斜めになっているのに対し、前の薪積みの端は割と垂直になっているのがわかるでしょうか(それでも少し逆傾斜になっていますが)。このあと雨になり、後ろの薪積みの端は見事に濡れて、彼は私に「斜めに積むとこうなるんだよ、冬使えなかったらどうするん」と指さされているのです。また、一番上の積み上げ作業のときに、「仕上がったものがカタガタしていると、せっかくやったのに適当に積んだように思われるよ」といわれているのです。 そうしながら、別に薪積みでなくてもいいのですが、日々の家族の営みの中でこうやって親(私)が大切だと思っているものが伝えられたらいいなと、思い至りました。 今年の11月はとても暖かく、中旬になってもモンシロチョウが飛んでいて、カブの葉に青虫がついています。このまま例年にない暖かな天気が続くのか、それとも豹変したように大雪が降り始めるのか、いずれにしてもただならぬ気配をかんじているのですが、気圧配置をみているとやっと雪の積もる冬が訪れそうで、雪に閉じ込められる冬はきらいなのに、なぜかほっとしています。 身体も気持ちも、家づくり、家具づくり、書いてまとめることに向かう季節がやってきました(これは頭の使い方も、身体の使い方も偏るのでバランスをとるのが難しくのでしんどいのですが、冬、雪に閉ざされれる向こうの谷に暮らしていると、本来、このリズムが雪国にはあるのだとも感じるのです。)。その中で、これまでお便りの中で書きすすめてきた「行政組織はなぜ自己の組織運営や事業・施策について自ら改善を行うことができにくいのか」もまた書き進めてみたいと思っています。私自身、この春から組織の中のメカニズムに触れる新しい経験をかなり濃厚にしていて、いちど整理しておく必要性も感じているのです。 この冬が私にとって家族にとって知人達との展開の中でどのようなものになるのか楽しみです。冬の庭についても見方や関わりだせるといいなと、いま、思いました。 また、お便りします。 #
by mukouno-tani
| 2015-09-26 12:34
| 子育ちと環境
拝啓 森の花畑の守人様2015年7月9日の朝です。今年も赤と白のベルガモットがすごい密度で花をつけています。匂い立つ花がマルハナバチやミツバチをたくさん呼んでくれて、おかげ様で畑のカボチャやピーマンの実なりがとてもいいのです。向かって右側で勢い伸びているのはチダケサシやワレモコウです。一昨年から少しずつ田の縁や道端にあって草刈されていたものを移しているのですが、チダケサシは今から8月中旬にかけて、ワレモコウは秋に可憐な花をつけてくれます。まだまだ野の咲く草花の研究を進めねばなりませんが、徐々に早春から晩秋まで花の咲く畑にしていけたらいいなと思っています。 こちらでは月曜日から小降りの雨が続き、庭や畑や山の植物達が一斉に枝葉を伸ばしています。考えてみれば、地面の上の枝葉がこれだけ勢いよく伸びているということは、バランスをとるように地面の下の根も一斉に伸びているということなのでしょう。更に進めれば、梅雨の季節とは、土の中の菌や微生物の活動も盛んになり、植物の根の先の毛細根と菌・微生物の共生関係も強まる時期なのだと考えるのです。 だとすれば、草が一斉に伸びる梅雨の季節が草堆肥を仕込むに適した時期なのだと改めて姿勢を整え、梅雨の合間をぬって、草堆肥づくりを進めています。 この春、この2年間、草堆肥づくりに使用しているニュージーランド箱の設置場所を紅葉の樹の下に移しました。ニュージーランド箱には雨よけ用に板で蓋をしていたのですが、要は草が腐植するのに必要な”少し湿った状態”を維持するのが難しく、結局水が足りなくて中の草の乾燥が進み過ぎたり、逆に蓋をし忘れて草がびしょびしょの状態が続いたりしていました。それでも草堆肥はできていたのですが、去年の秋頃、かみさんが集落のお母さんに『昔は樹の下に草や落ち葉を積んで腐らせたものを畑に入れていたのよ』とお聞きしたと教えてくれて、「そうか樹の下なら日当たりも温度も湿度も安定している」と感じ入ったのを思い出し、春頃から箱を樹の下に移したらいいのではないか考えはじめていたのです。樹の下で箱の気候を安定させれば、つくる期間を短くでき品質も安定させられるのではいかと。今年は丁寧に、ヌカや土を混ぜているせいもあるかもしれませんが、現在の所、箱に入れた草はいつもよりうまく発酵しているようです。草は四分の1とか五分の1に目減りするので、あと1週間位でこの倍ほど箱に草を入れねばなりません。 草堆肥づくりに使う草の刈場は、向こうの谷の家の東側にある湿地です。家の東側は家の南側にある山からの水が集まる所で、小川が流れ、その周囲が湿地になっています。湿地はカヤなど背の高い草が繁茂する藪になりやすく、そうなると虫の巣窟にもなり、湿気が滞り家を傷めたりもするのですが、ここの水の流れを道をしっかりさせ、周囲を若干乾燥させて、草刈り場兼湿地の庭になるように徐々に手入れを進めています。 できるだけ注意深く草を刈っていくと、ギボウシやチダケサシやクサレダマや菖蒲など湿地に適応する草花が沢山生きていることがわかります。用心深く手をいれると分け入り難い湿地も人に心地よい風景に変わっていくのだと感じています。 春から家の東側の湿地のさらに奥にある藪になりかけている荒野や林も手をいれはじめました。それまでの、がむしゃらに刈払機で全てを刈り倒す方法を改め、まず木陰をつくって草の勢いをコントロールする目的で4月初旬に友人とともにコシアブラ(下写真1つ目)やしば栗(下写真2つ目)の幼木を山どりして移植しました。友人から山どり苗は強いと聞いていた通り、彼らは草や夏の日差しに負けることなく根付いていっているようです。ほとんど直根しか残っていないコシアブラの幼木も春先なら移植可能であることもわかりました。 幼木の植栽後、この後どうしようと思案していたのですが、5月中旬に植生調査のため訪れた広島の因島のある風景をみてイメージが定まりだしました。それは島の山尾根沿いのコナラ林の下に続く、木漏れ日のさす、ひと1人歩ける位の道幅の、素敵な森の小道でした。小道は心地よく明るく、道の脇の木々には三つ葉アケビや五葉アケビ、サルトリイバラなどが枝垂れ、道際にはまだ名前をしらない背の低い草花がいい塩梅で茂っています。そしてしばらく歩くとぽっかり明るい空間があったりします。 いままで、庭づくりとは”その空間をどう植物で構成するか”から考えはじめるものだと考えていたのですが、この小道を体験して、「荒地を庭に変えていくためには、まず荒地の中に素敵な小道を通すイメージをつくり、道を通すように用心深く植物を選びながら草を刈っていくことからはじめたらいい」と思い至ったのです。 6月下旬、早速、家の東側の湿地の奥にある草原にて小道づくりの実験を開始しました。まず、生えている植物をよく確認しながら、小道を通す所を探っていきます。植物の種類を確認すると気になっていた紅色の花をふわりとつける植物はクサシモツケソウだということがわかりました。そしてススキやスゲに隠れて、ヤマジノホトトギスやノコンギク、ノショウブ、ウツボグサ、ノイバラ、ヘビイチゴ、木イチゴなどの小さな群落があるのを発見しました。道はこれらの植物の群落の間を通すように、人1人通れる道の幅で、刈払機で定期的に同じ個所を刈り通しながらつくっていこうと考えています。3~4年後には道脇に所々植えているシバ栗やコシアブラが小道の上に枝を伸ばし、ちょうどいい木陰を作ってくれるといいなと思っています。 併せて、雑木林の中に小道をつくる実験にも着手しました。この道は上記の草原の小道から続いているものですが、すでに7~8mに育ったハンノキや杉やヒノキやリョウブなどの若木が鬱蒼と茂っており、地面には木陰の山野草や笹がまばらに生えています。 この林のイメージは”燃料林”です。この春に友人と林を確認した際、ある程度の大きさになった若木(簡単に伐倒できる大きさ)を収穫しながら更新する燃料林にしたらいいのではないかとの提案を受け、この林を道際に所々薪棚のある小道が通る美しい燃料林にしようと考え至ったのです。 ここも6月下旬から人1人通れる幅で刈払機を通し、ときおり道脇の樹の枝を梳く作業を行っています。そして、何とかこの冬までには森の中の薪棚第1号ができればいいなと思っています。 ゆっくりとお便りを書いている間に7月、8月と過ぎ、はや9月に入りました(この間、仕事や家事の合間に庭や家での新しい試みも展開しているのですが、それはまたの機会にご紹介したいと思います) 家の北西にある畑では今年で3年間、試験的に、ほぼ不耕起・無肥料で(種を播く溝以外は土を起こさずに、1年目の種周りの堆肥以外は何も肥料を与えずに)、トウモロコシと大豆を混植しているのですが、今年はトウモロコシがうまく実をつけています。大豆は知人から頂いた島根県の奥出雲町で30年間余、無肥料栽培で自家採取している種、トウモロコシは粉にするために野口の種から購入した札幌黄八行という品種です。 いわゆる完全な無肥料である自然栽培については半信半疑で、しかし耕起も最小限、堆肥を含め施肥は基本的にしない、窒素はマメ科との混植でマメ科の窒素固定力を生かすというやり方ができるなら、野菜づくりはすごく省力化できるなと考えていました。 木村秋則先生は”奇跡のリンゴ”で有名な方ですが、最近、読んだ『自然栽培ひとすじに』という本では自然栽培による野菜栽培の研究結果をまとめてられています。その第6章「自然栽培による野菜づくりの基本」で記述されている、”土の力を生かす耕起と播種・苗定植の方法”、”マメ科植物の積極利用で窒素を固定”の内容は特に興味深いので一部書き出してみます。 (なお、木村先生は粗く耕すようにすることで得られる効果を”乾土効果”と呼んでいます。その効果について、次の様に述べています。”…私が作物を栽培するときに、特に重視しているのが好気性菌の働きです。…酸素の少ない状態で嫌気性菌が有機物を腐敗させ(人間にとっての)害虫などを呼ぶという循環よりも、酸素の豊富な環境で好気性菌が有機物を植物が吸収しやすいように分解するという樹幹の方が、農業には適しているといえるでしょう。土を大きく粗く耕すことで、土中に酸素が入りやすい大きな空間ができ、土塊の表面は乾燥気味となって、好気性菌が活動できる環境を整えることになり作物の健全な生育を助けます。これを乾土効果と呼びます。逆に、細かく耕すと土中の空間は少なくなるため主に活動するのは酸素のない環境で生きる嫌気性菌。好気性菌が働くのは地表面に限られてしまいます。(pp77-78)”) ・肥料や堆肥を用いずに、どのように土壌に窒素を補給するか?・・・野菜づくりではりんごと同じようにマメ科植物の力を借ります。…ただ同じマメ科でも品種によって、よく根粒菌が働くものと、そうでないあるため注意が必要です。例えば黒豆などは、・・・地下部の根粒菌は極めて少なく、自身の生長を維持するだけにとどまっている印象です(pp118-119)。 ・大豆の播種の方法は2通り。「大家族法」…この方法では野菜が10~15㎝ほどに生長してから行います。野菜と同じ畝に野菜の両側に20~30㎝感覚で大豆を一粒ずつ置き、人さし指で第一関節の深さまで土に押し込んで土をかけます。大豆はある程度乾燥を好む植物ですから、覆土はあくまで指の第一関節程度(2cmくらい)に軽く行うことが大切です。次に「核家族法」…これは通路を挟んで野菜の畝と大豆の畝を交互につくるやり方です。大豆の間隔は「大家族法」と同じく20~30㎝。…枝豆を収穫するにはこちらの方法が向いているでしょう。枝豆の収穫は、根粒のついた根を残したまま地上部だけを刈り取るようにします。・・・土壌にとって貴重な窒素補給源となります。また枝豆を収穫した後、そのまま大豆の株間に大根を作付すると、非常によい結果が得られます。ちなみに大根は5年ほど連作しても大丈夫です(pp120-121)。 ・ヘアリーベッチは…今日では「豆すけ」などという商品名で雑草抑制効果もある緑肥として利用されています。根粒菌の働きは大豆よりも強いくらいなのですが、蔓性の植物なので作物によって生長を阻害されることがあり、注意が必要です。例えば丈の低い野菜(葉物類)と一緒に作付すると野菜を覆ってしまうと同時に、収穫時の手間が大変になります。また、トマトなども巻つかれて生長が止められてしまうおそれがあります。対してジャガイモなどの根菜類、果樹などにはうってつけといえるでしょう。播種はやはり植え付けた野菜が10㎝くらいの丈になったころ、30㎝ほどなられた両脇に置き、ごく軽く覆土します。…ヘアリーベッチは生長が速く春にまくと枯れるので、1年に二度播種するようにします(pp121-122)。 ・マメ科植物の利用は、りんご栽培の章で解説したように、窒素方を避けるために長期間連続して行わないようにします。根粒のつき具合を確認しながら(30個ついていたら翌年も播種、10個以下なら中止する)、3年間続けたら2年休むというサイクルを目安としましょう(pp122)。 以上の木村先生の実験結果や、今年の向こうの谷での自然栽培風の大豆とトウモロコシの混植栽培の結果のよさをふまえ、この秋から、幾例か、草堆肥を施用する栽培方法(有機農法)から好気性微生物の繁殖を促す耕起法×マメ科との混植による窒素供給(自然栽培)への切り替えを試みることにしました。 1つ目は枝豆収穫後の畝への源助大根と聖護院大根の播種です。これはスウィートコーンと枝豆の混植跡地の地上部を切り取った大豆の株間に源助大根という短根系の大根の種を播種したものです。隣のパオパオの中には同じ源助大根と聖護院大根が播種されており、若干播種時期が遅かったので加温してみています。これで併せて育ち方の違いも確認してみるつもりです。(ちなみに前作の混植栽培したコーンは比較的豊作、対して枝豆は極めて不作でした)。 守人様 今日は9月24日、先週から一昨年、山裾から移植したアキチョウジが満開になりました。 ベルガモットの花が7月末に終わったあと、8月からはフロックス、オミナエシ、芙蓉、オレガノ、ミント、ニラの花が次々と咲いていきます。そして、この年の花と畑の実なりをみていてわかったことがあります。畑のそばには常に花が咲いていた方が野菜や果樹には好ましいのだということです。幸運なことに向こうの谷の家や畑の周りには、この家にお住まいであったおばあさんが色々な宿根草を植えてくださっていて、勉強しながら花の時期や繁殖のさせ方を学んでいくことができます。これからは畑のそばの花畑というテーマにも実験と研究を広げていきたいと思います。 また、このお便りの中で書きすすめている「行政組織はなぜ自己の組織運営や事業・施策について自ら改善を行うことができにくいのか」は今回はお休みしますが、こちらもできるときに併せて進めていきたいと思います。 #
by mukouno-tani
| 2015-07-09 07:30
| 畑と山と食と循環
拝啓 森の花畑の守人様
2015年3月17日の朝です。 向こうの谷にもようやく春の兆しがおとずれました。 雪の降る日と日の間隔が広くなり、畑や森や家の周りの根雪が退いていきます。寒暖の差が大きく、雪の日は日中マイナス3度なのに翌日晴れると14度といった具合ですが、暖かい日が続くたびに樹々の芽が少しずつ太り、球根植物がむくむくと動いていることを感じることができます。 雪の退行と植物達の動きに促されて、昨日から朝に向こうの谷を散歩し、家の庭や周囲の森の手入れをすることをはじめました。 この家に移り住む前からある、西の庭の木立性のバラが芽吹いているのを確認しながら、太い枝を切り戻し、枯れ枝や細い枝を鋤いていくと気持ちがスッとすいていきます。 南の庭の山桜の木の下に、スノードロップが咲いているのをみつけました。次々と花咲く季節の到来の予感です。 また、春が近づいて来ることは、家の手直しをしたり、家具をつくったり、たっぷりと本を読んだり、勉強したり、考えていることをまとめることができる時期の終わりが近づいていることを意味するのだと、ようやく気がつきました。今年の2月半ば、何度も雪に振り込められ、冬の終わりはまだまだずっと先であるという圧迫感に苛まれながら、身体を動かさず手先と目と頭ばかり使う作業をやりすぎて一杯一杯になったことがあったのですが、いま思えば、そのことにだけ集中できる季節もまた豊かなのだなと、思うのです。 いま、このように家の外仕事に気をとられるようになりながら、本格的な春の到来までに作っておきたい家具に急ピッチで取り組んでおり、やっとその一つが完成しそうです。それは、台所の小さな作業台です。子ども達がだんだん台所に関心を持つようになり、従来のスペースが手狭になってきたので少し調理台を拡張したいと考えていたのです。奥行50cm×幅80cm程度の小さな台ですが、なるべくあり合わせの材料を使おうと、端切れ板をパッチワークのように組み合わせて使っています。この上に天板が乗るのでこのモザイクは隠れてしまうのですが、彼ら(子ども達)の思い出さないかもしれない記憶の片隅に、そういえば変なものがあったな、という感じで残ればいいなと思っています。 大きな本棚は知的好奇心が旺盛になりはじめた子ども達が家の本類や雑誌類に手を伸ばしやすくするため、洗面所関係は子ども達の友人・知人の訪れが多くなってきた向こうの谷の家でもう少し家族のプライベートを保つため、そしておしゃれに関心をもちはじめた末娘のため。 まずは洗面所の改装かなと考え、手を入れ始めました。1次改装で何とか使えるようになっていたのですが、蛇口の取り付けが悪く水漏れで傷んだ感じになっていたものを、うちの女の人達がもっと楽しく使えるように、かわいらしくしてみたいと思っています。いま、水をためる部分をはずし、少し傷んだ天板に再塗装している所です。 先日、家の周囲の森の手入れをするための新しい道具が届きました。 シルキーの3段式高枝ノコギリです。この刃渡り40cm以上もあるノコギリ刃に延長用の棒をつけて使用します。高木の枝打ちにはこれが重宝すると、狼の眼をした友人が紹介してくれたものを、森の中の庭の手入れには必要だと考え、思い切って購入してみたのです。 友人によると、この大きな枝打ち鋸は、枝にほぼ垂直に鋸の歯を当て、その鋸の重さを使って歯を上下させて切っていくのだそうです。試しに畑や、椿や柿やグミや桑の木に大きな影をつくっていた、家の東側の杉林の枝を打っていくと、本当に効率よく枝を落とせるのです。そして、枝を確認しながら剪定していくと、杉も花木や実のなる木も、光を受けられるように幹や枝を伸ばし、それが実のつき方や地面への日の当たり方を左右しており、人にとって里山や畑を豊かにすることに高木の枝をコントロールすることがとても重要であることを体感することができました。 落とした杉や雑木のたくさんの枝は、ロケットストーブの燃料にするとかなりの量になると思います。これから夏にかけて枝打ちした杉林の下に小さな薪棚を作ろうと思案をしはじめているところです 。 最後に、少しずつまとめている「行政組織はなぜ自己の組織運営や事業・施策について自ら改善を行うことができにくいのか」について、アルバート・ハワード先生が『農業聖典』の中で描写している、19世紀前半のイギリスの研究組織を題材にまた、少し考え進めて終わりにしたいと思います。 ハワード先生は、「農業研究方式の欠陥」という項の中で、19世紀前半のイギリスの農業研究組織の問題点について次のように記述しています。 ・研究所は科学を基礎に組織されており、誰もが認識している農業という部門を基礎にしているのではない。そのため、手段(科学)と目的(農業)はすぐに接点を失うことになる。(P235) ・これらの研究所内にいる研究者は専門化された領域に閉じこもり、研究はやがて細分化されていく。直接的な実践経験から得られた着実な影響が、通例というよりむしろ例外とされてしまうのである。…これらの研究の顕著な特徴はきわめて小さい単位に課題を分割するところにある。(P235-236) ・もう一つ不安に感じる特徴は、科学と実践の間の大きな隔たりである。…科学者が個人的に管理できる圃場をもち、その圃場で彼のスタッフとともに自分自身のひらめきをどこまでも追及できるところは、イギリスではアベリトウィス…を除いて知らない。しかし、アベリストウィスですら、家畜についてはよい結果をあげるまでには至っていない。改良された牧草の品種とそれらの栽培方法が、彼らの論理的結論、つまり、市場向けの健康な一群の羊や栄養十分な家畜は、それらの牧草によって飼育が続けられ得ることによってもたらされる、ということと結びついていない。(P236) ・かつて公的機関がこのような問題について自問自答したことがあっただろうか?これらの研究所のいずれかに対して、未来のダーウィンやパスツールとなるような人たちの反応はどうだったのだろうか?細分化された科学の仕事をするそれら組織にとどまるよう彼らに無理強いする状況があったとしたならば、彼らの運命はどうなっていたのだろうか?…農業のような課題において、科学と実践を分離するような試みが合理的であるといえるであろうか?(P236) ・・・・実は農業者はいろいろ不満を訴えている。まず、研究者は実際の農業を営むうえでの必要なものや諸条件にふれていないこと、研究の成果は学問的な定期刊行物の中に埋もれていたり、難解な用語で表現されていたりしていること、しかも、これらの論文は無計画的に細分化された課題を取り扱っているころ、…研究機関はあまりにも巨大で扱いにくく、地域的な問題の実際的な解決が観察されるような試験農場をもたないこと、などである。(P237) ・これらの異議に足して有効な回答が一つだけあるように思われる。農業試験場の研究者が自らの勧告を取り上げ、彼らの研究結果を十分に試験すべきなのである。この研究の諸成果は、やがて土地の上に現されるようになるべきである。(P237) ・・・・この点を取り扱うにあたってPEPレポート(政治・経済計画報告書)は次のように述べている。「行政官の主要な仕事の一つは、研究者の努力による最新の成果を含む科学的な知識の全体を農業者が理解し、自分の農場に応用できることを保障することである」。(p237) ・これを実践するためのもっとも効果的な方法は、組織がこれらの研究の価値を少しでもみんながわかるように実際な方法で実証することである。この簡単な方法は、批判者や冷笑者を黙らせるだろう。しかし、その対処のわずかな遅れが火に油を注ぐことにもなる。結局のところ、国の予算を年間七〇万ポンドも費やす研究機関は、それが予定していた利益を受けるはずの人たちに疑問をもたれるような運営をするわけにはいかないのである。(p237) 守人様 また、随分長い間、書くことに間を開けてしまいました。 これは1つに、私が、私の時間と勤めている組織での時間がどう関わっているかを捉えなおし、仕事も含め私と家族の人生のための時間として抑えなおそうとしては、再びカオスの中にいることに気づき驚くことを繰り返しているからのように思っています。自分の日々の行動は周囲の人間関係によって極めて強く影響されているという捉え方でなかったり、組織のミッションと自分の大切なことは別である前提で懸命にバランスをとっている人達の中にいて、穏やかに自分や家族や周りの方々をみつめながら日々を過ごすということは中々に難しいことですね。まさにこのお便りの中で少しずつ書きすすめている「行政組織はなぜ自己の組織運営や事業・施策について自ら改善を行うことができにくいのか」に自分自身も対面しつつ、考える対象ともしていたつもりだったのが、再びこのことに着手するまでに3か月間を要したことを認識すると、いかに私が日々の人間関係や組織関係に埋もれやすいか、改めて自覚しております。 いずれにしても、再び書くことに着手できるところまできました。また、お便りします。 #
by mukouno-tani
| 2015-03-16 07:16
| 畑と山と食と循環
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