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拝啓 森の花畑の守人様
8月11日、昨日、かみさんと子どもと病院に行きました。心配である事柄は一つ落ち着く方向を向いており、私達はいささか落ち着きましたが、思い返し改めて痛感したことはこのことでした。 『やはり、いまの子ども達の中には、私の子どもの頃を思い出して、大凡と考える割合(40人に多くて3人)よりも、知っているだけでもアトピーやアレルギーや喘息や先天性の病気を持つ子達が沢山いるように思う(20~30年前はそういう病名がついていないだけで、やはりいたのではないかという意見もあるが、それにしても数えてみれば、身近な子の3~4人に1人はそういう状況であり、明らかに多い)。そして、それはいまの大人達の社会が作り出した食べ物や環境やライフスタイルの劣化の影響を受けての結果であり、多かれ少なかれいまの大人の作った消費社会の被害者であるのに、社会全体はそのことに目をつぶっている。』 『そのことに対し、まず、僕のできることは、子達の育ちに寄り添いながら、家族が安心して食べられるものを、お金がある時でもない時でも安定して自分達で育てることができる技術と、豊かに創造的に暮らせる環境をつくる技術を身につけていくことなのだと。』 このような視点に立って、向こうの谷での暮らしを重ねていこうと、改めて思い定めました。 8月初旬、家の南の畑では、6月中旬に咲き始めた白と赤のベルガモットが沢山の蜂を呼んでくれて、茄子や胡瓜や瓜やピーマンやトマトやオクラやインゲン豆などが次々と実をつけはじめました。 ![]() 幾つか成果も出はじめたと思います。 北の畑では、不耕起・無肥料栽培(不耕起4年目、無肥料2年目)で、トウモロコシ(粉用)と 大豆(晩生)の栽培を行っていますが、今年はしっかり実の入ったトウモロコシができそうです。不耕起といっても、種を播くときは、幅5cm、深さ5㎝程の溝を掘り、そこに自然栽培の手法に基づき、窒素供給の目的でトウモロコシと大豆を30cm間隔で交互に植えています。あとは、梅雨時期に1回、草を抜いて株間に敷いたり、草を引くときできる範囲で刈草を株間に敷いたりしているだけで、あとは殆ど手をかけていません。トウモロコシが茂り始めると、日陰ができて雑草の方もある程度、成長が抑制されているようです。 ![]() 今回は同じ畝を2つ作り、向かって左側は、草抑えと乾燥防止のねらいで落ち葉でマルチし、右側は何もしなかったのですが、成長は落ち葉マルチ側が随分よさそうで、葉が播き始めています(ただし、レタスは夏場のネットの中の暑さと蒸れに耐えきれなかったのか殆ど枯れてしまいました)。違いは雑草の繁茂程度だと考えています。落ち葉マルチのなかった方はネット内に雑草がキャベツやブロッコリーを覆いつくすまで勢いよく繁茂し、明らかに苗の成長を阻害していましたが、落ち葉マルチはそこまでではありませんでした(両方とも7月末頃に1度簡単な除草は行いました)。あと、栽培後、土の状態を確認してみないとわかりませんが、落ち葉マルチの方が、土中の状況が苗の生育によいものになっているのかもしれません。続けて、秋キャベツ、レタス、ブロッコリーもやってみようと考えていいます。 ![]() そして、来年は、この結果もふまえ、例えば配合土を山土に変える、草堆肥の割合を増やすなどして、資材もできるだけ自前のものに変えていきたく、少し研究を進めていこうと思っています。 ![]() そうそう、最近、素敵な本に出会いました。アメリカの詩人、作家であるメイ・サートンの『独り居の日記』、そして『夢見つつ深く植えよ(Plant Dreaming Deep)』」です。ヨーロッパに生まれ育ち、両親とともにアメリカに来て、劇団の監督や大学での講師を仕事としていたサートンは、1960年代、ニューイングランドのネルソンという小さな田舎町の一軒家に引っ越します。そして、彼女は荒れた家や庭に手を入れ、田舎の色々な人たちと関わり感じ、考えながら、1人の暮らしの中に私と私の周りにあるものを見つめ、文章にしていかれています。それは、ヘンリー・D・ソローの森の生活に似ているようで違うように感じます。それが女性だからでしょうか。彼女は様々な田舎の隣人と出会い、交わり、来訪者の訪問を受け、その中に新しい視角を見いだし、時には感動しながら、しかし、独りである時の大切さ見出していかれるのです。私は、家族と暮らしていても、仲間といても、独りでいても、”独りであるの時間の大切さ”を改めて感じさせてくれるこの2つの著書がとても好きになりました。 以下、それぞれの本から文章の一つ抜き出してみます。 『独り居の日記』P5~6 ・さあ始めよう雨が降っている。窓の外に目をやると、楓の数葉はすでに黄ばんでいる。耳を傾けると、オウムのパンチのひとりこごとや、やさしく窓を叩く雨を相手のお喋りが聞こえてくる。 何週間ぶりだろう、やっと一人になれた。″ほんとうの生活”がまた始まる。奇妙かもしれないが、私にとっては、いま起こっていることの意味を探り、発見する、ひとりだけの時間をもたぬかぎり、友達だけでなく、情熱をかけて愛している恋人さえも、ほんとうの生活ではない。なんお邪魔も入らず、いたわりあうことも、逆上することもない人生など無味乾燥だろう。それでも私は、ここにただひとりになり、”家と私との古くからの会話”をまた始めるときようやく、生を深々と味わうことができる。 …こうして私がひとりいる時こそ、花々は本当にみられている。心を注いでやれる。存在するものとして感じられている。… …ここにある雰囲気は、秩序と美である。それは、ここに戻ってきた私をつかのま脅えさせる。私は自分が十分でないと感じる。開かれた空間、瞑想することのできる場所を私は作り上げはした。しかし、その内部に自分がみいだせなかったらどうしようと。 思うに、この日記を書くことは、それをするための一つの方法である。 ![]() ・来る日も来る年も、父が信じられない量の仕事をこなしてゆくのを見ていた私は、決まりきった手順というものがいかに役にたつか、ちょうど質素なニューイングランドの教会でのように、精神がどんなに自由にそのなかでうごきうるかを知っていた。決まり仕事というもは牢獄ではなく、時間から自由を得る道だ。はっきりと計量された時間には無限の空間があり、その意味では、音楽に似ている。 私が最初の10日間にうちたてた日課は、ほとんどそのまま今も続いている。朝早くには、それは私の机のあたりをめぐり、ゆっくりと、家の残りの部分に移ってゆく。昼食後、私は小部屋に一、二時間横になり、ようやく起きあがると、五月から十一月のあいだなら庭に出てゆき、夕食前のニ、三時間を庭作りで過ごす。冬には、いつでも屋内でできる洗濯物だとか、ファイルを整頓するとか(けっして終わりがない!)、手紙を書くとかのゲームがある。夏には早く六時に起き、冬にはまだ暗い空に星の輝く六時半に起きなくては、一日の最良の時間がごたついてしまうことを私は知っている。朝の仕事に主要なエネルギーをそそぐつもりなら、早く床につかなくてはならないことも。とはいえ灯を消す前、二、三時間、本を読みはするのだけれども。 ![]() メイ・サートンは、『夢みつつ深く植えよ』のあとに、その本に意図せずついた”田園での庭とともにある充実した暮らしの紹介”のようなイメージを、本の意図する真意に取り戻すために『独り居の記』を書きました。彼女は、そのことについて、こう書いています。 ・『夢見つつ深く植えよ』のおかげで、庭仕事する友人がたくさんでした。けれど私はこの本が、そうと意識しないで真実を伝えていないことに気づき始めている。ここでの生活にまつわる懊悩と怒りにほとんど触れられていないからだ。今こそ私は壁をつき破り、そのごつごつした深部、基盤そのものにまで触れてみたい。…私はたぶん、立派とはいなえない理由でひとり暮らしをしている。私は箸にも棒にもかからぬ人間であり、しかるべく抑制することを学ばなかったため、一つの言葉や一つのまなざし、雨の日、あるいは飲み過ごした一杯のお酒にも平衡を失ってしまう気質のおかげで、人らから離れている。私はひとりでいる必要があるのだけれども、一面では、かぎりもなく空虚な沈黙をひとりでもてあますことになったらどうしようという不安があって、それと均衡を保っている。たった一時間のうちに私は天国にも昇るかと思えば地獄にも下る。私は生きながらえているのはひたすら、みずからに仮借ない日課を課すことよってなのだ。私は手紙を書きすぎ、詩をかくことが少なすぎる。外見に刃沈黙しているようにみえても、私の頭の奥には人間の声や、多すぎる欲求や希望や心配で割れるようだ。”未了”や”未送”のことがらに追い戻されずにじっとしていられることなぞ、およそない。私は疲労でくたくたになったと感じるけれど、それは仕事のためではない(仕事は休息だ)。新鮮な気持ちで張り切って仕事にかかる前に、他の人たちの生活や要求を追い払ってしまわなくてはならない、その努力で消耗するのである(『独り居の記』p7~8)。 メイ・サートンの文章を書き写していて、本当にそう思います。真の仕事は真の休息なのだと。そして、そのことにたどり着くために、独りである時をつくり、たどりつくための日課を意識して課すのだと。サートンは毎日、庭の花を部屋の花瓶に活けていました。毎日、庭の様子をみつめ、自分や家の様子を感じとり、花を活けることも大切な日課だったのではないかと、そう感じたので、庭に出て、かみさんの好きな吾亦紅のえんじ色の花のついた枝をい数本摘んできました。 ![]() 今年は、北の畑もずいぶん変わりました。去年まで荒れた草地に近い状態だったのですが、今年は草堆肥を仕込み、草マルチを繰り返した所、土が随分腐植質になり、今年はベルガモットやフェンネルの花が優勢になっています。やはり、基本的には、畑づくりも庭づくりも理屈は同じだと確認しています。花が好きなのでどうしても花に焦点があってしまうのですが、手前はリーフレタスとシシトウの混植で、レモンバーム、フェンネル、ベルガモット、フロックスと続いています。今年はまだ花構成が初夏中心で、蜂を呼ぶ花の力も畑に活かせていないので、春・秋の宿根草の導入と実ものの野菜の導入を考えていきたいと考えています。 ![]() この文章を書き始めたのは8月11日ですが、今日は9月15日。そろそろ本格的に冬を迎える準備を意識せねばならない季節になろうとしています。 ▲
by mukouno-tani
| 2016-08-07 15:00
| 畑と山と食と循環
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