カテゴリ
全体 家と庭 畑と山と食と循環 子育ちと環境 向こうの谷 野研ノート(家族) 野研ノート(地域) 野研ノート(デザイン) 野研ノート(社会) 野外体験産業研究会(活動) 野研ノート(ライフヒストリー) フィールドノート 生きる 働く 森の道を歩きながら 暮らしと時間 未分類 最新の記事
以前の記事
2018年 02月 2017年 12月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 04月 2015年 12月 2015年 09月 2015年 07月 2015年 03月 2015年 01月 2014年 09月 2014年 06月 2014年 04月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 05月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 タグ
フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
1 自分たちの食費の内容や使ったお金の行先を考えはじめてみると 私達、農山村に暮らす家族も、日々経済に関わって暮らしているが、意外と、自分達の日々のお金の使い方は不明確なことが多い。さらに、使ったお金が子ども達の将来に役立つように地域で生きたものになっているかに至っては、殆んどわからない状態ではないだろうか。 例えば、月々の食費の中で、野菜、総菜やお菓子や調味料に使っている割合は?と自分に問えば、明確に答えられないし、いわんや、食料を近所のスーパーで買うと、どの程度が地域に暮らす方々の収入につながり、どの程度が都市や外国に流れ出ているかについては、実は、買物している人も経営者も生産者も行政も研究者も答えられないだろう。 農山村の家族の食費やその他の支出を調べようと試みてわかったことがある。国も都道府県も色々な調査をしていて、それは農山村(中山間地域)の市町村も職員さんがかなり協力して実施しているのだが、農山村の世帯の家計を把握するデータは極めて少ないし公開もされてないのだ(例えば、大学等の研究者が使用する有名な統計に家計調査年報や全国消費実態調査というものがあるが、これは都市部中心にまとめられており農山村の実態は把握不可能である)。 地域版家計調査ソフトをつくって、とりあえず調査開始 しかし、農山村の地域づくりに取り組むにも、脱規模の経済を主張するにも、地域の食料や燃料の自給度を高めるにも、地域で若い人が暮らす条件を整えるにも、まず、自分達がどのようにお金を使っているか、自分達の使ったお金がどう動いているか、大雑把にでも現状をデータで捉えることが必要である。 「悲しいけど我々の生活は,自覚不可能なほど経済や流通の仕組みに組み込まれてしまっており,一度洗いざらい数字化(みえる化)してみないとわからない状態になっている。」「自分達の体質改善をしようと思うなら,客観的に自分達の健康状態を把握することも大切だ。」そう考え、知人や同僚達と家計経済循環研究会 通称家計研 をつくり、農山村の家族の食費や光熱費や教育費をはじめ様々な支出の調査をすべく相談をはじめた。 まず,直面したのが調べる方法だった。例えば家計調査年報など国のメジャーな調査方法はとても複雑でかつ農山村の世帯の支出を把握する内容になっていない。そこで,まず調査対象者に家計簿感覚で使ってもらえ,かつ年間の支出データを記録できる『地域版家計調査ソフト』を開発した。 ![]() ![]() 平成21年から地域版家計調査ソフトに1年間入力頂ける人を少しずつ増やし、現在は調査協力して下さる方が100人近くになり、随分データもたまり、色んな傾向も見えはじめてきた。そこで、できる所から公開してみたいと思う。結構幅広のデータなので、まずは農山村の家族の食費の内訳と使われたお金の行先から整理してみる。 調べてみた農山村に暮らす子育て世帯の食費のトップは外食、次はお肉類、そして… このグラフは,島根県の農山村に暮らす子育て世帯35世帯の1年間の食費を品目別に並べ替えたものである。みんな小さな都市部まででも1時間前後はかかる地域に暮らしており,所得規模は様々なので,概ねその平均値としてみてもらうといいと思う。 ![]() なお,米・穀物・粉(主に米)への出費が低いのは,親や親戚にもらったり、自分で作ったりしているからのようだ。 次に,食品をどこで買物しているかをみる。 ![]() 例えば,先ほどのお菓子でいうと,昨今は、地元でお菓子を買う,イコール、買物先は地元の農協スーパーやコンビニなどではないか。では,これらお店売っているお菓子は地元産か?否,その95%以上が大手メーカーが地域外で作られたものを仕入れているはずだ。お菓子の裏のラベルを確認すればわかる。 食費のうち、地域内で作られた食べ物に使ったお金の割合は そこで,今度は,データを『地域内で作られた食物への支出』,『地域外で作られた食物への支出』に仕分けしてみた。ややこしくなるので,ここでは外食への支出は除いてある(飲食店は家庭よりさらに地域外の食品使用度が高いので,算入すれば地域外で作られた食物への支出はさらに高くなろうだろう)。 ある程度は予期していたが,結果は,凄まじいほどの地域外で作られた食物への支出であった。農山村の世帯の1年間の食費のうち9割は、『地域外で作られた食物』に支出していた。 ![]() いつの間にか、農山村の家族の食卓も地域外の工場や外国で作られた食べ物に席巻されている さらに,この食べ物の種類別に『地域内で作られた食物への支出』,『地域外で作られた食物への支出』の割合をみてみる。緑の帯の部分が地域内で作られた食物への支出額であり,緑の数字が割合である。この割合は,島根県のA市O地域での農産物直売所をはじめとした地域内生産物の販売所の売上等から算出したものである。
![]() 結果は、高いほうから、お肉類0%、お菓子10%、牛乳20%、お野菜25%、魚・魚加工品0%、惣菜・弁当・テイクアウト25%・・・ 米を除く全ての食べ物が25%以下(米は地域内での縁故取引が多いため地元産の購入が多い)。もともとインスタント食品やコーヒーなどは元々農山村で作られないし,ジュースやアルコールやめん類も最近の農山村では作らない。地域内で作られたものを買うといえば,たまに直売所で、お餅やお団子,生鮮野菜、漬物,豆製品などを買うくらいではないだろうか。 田舎暮らしについて,よく,「田舎では野菜と米を自給して食費への支出を減らせるのではないか」という話がでるが,今の食費の中での野菜や米の支出のある位置をみてほしい。我々農山村に暮らす家族は,米や野菜より,肉やお菓子や牛乳・乳製品・卵に多く支出しているし,野菜より下位の油・調味料,インスタント食品,ジュース,アルコールなどの製品への支出も非常に大きい。そう,我々の食費はいつの間にか地域外から仕入られた食品を買うために向けられるようになっており,我々の食卓もそれで占められるようになっている。 大人が決める食費の内容が、そのまま子どもが身体に入れる食べ物になる 『下がり続ける野菜の栄養価』 ![]() 栄養価の減少の原因は、流通、栽培方法、栽培時期 栄養価の減少には大きく3つの原因があると思う。 ・1つ目は、収穫されてから売り場で販売されるまでにかかる時間が長くなったことだ。今は大分減ったそうだが、例えば隣の県で生産された野菜が、東京の中央卸売市場を経て、地方のスーパーで販売されるというケースだ。クーラーがかかっているといえど、十何時間もトラックで揺られ、何日間も倉庫で保管され、売り場にでれば、萎れては水をかけられ、噴霧器で霧吹きされていればどうなるか。私達だってへとへとになり、体力を消耗し、カゼをひくだろう。改善されたといっても、この流通の形態は根本的には変わっていないと思う。 ・2つ目は、戦後、急速に農作物の生産に農薬と化学肥料と除草剤を使うになり、また腐葉土、家畜の糞で作った完熟堆肥を使わなくなったためだ。栄養価の低下は、栽培方法の変化による育つ農作物の虚弱化の数値的現れだとも考えている。私達が、栄養剤で食事をし、病気にかかれば沢山薬を飲むことを繰り返していたらどうなるだろうか。向こうの谷の畑でも、落ち葉や枯草で作った堆肥できちんと土づくりをしてみると、野菜は病害虫に対してかなり強くなり、味が濃くなり、長持ちするようになった。このことは、有吉佐和子さんの「複合汚染」や梁瀬義亮先生の「生命の食と農」やアルバート・ハワード先生の「農業聖典」やレンチ先生の「生命の鎖」などで自らの実験例をふくめ沢山の例が紹介されている。 ・3つ目は、栽培適期(旬)を無視して、農作物を栽培するようになったこどだ。スーパーに並ぶ、冬のトマトやキュウリやピーマン、夏の白菜などが代表的だが、様々な研究でも旬以外の野菜の栄養価は、旬の野菜の半分や三分の一になることがわかっている。そのような農作物の全体に占める割合が高くなるほど、栄養価は低くなるだろう。 我々の食べ物の買い方が流通を作り、食べ物の栄養価や家庭の食卓の様子を変える 流通も我々の食生活を変えていく 栄養価の変化のことを先ほどのグラフと重ね合わせて考えてみるとどうなるか。 ![]() 〇野菜や果物などの生鮮品も7~8割は地域外から仕入れされているものを食べている。そうするとその食べ物の質や栄養価はどうなるだろうか? 〇お菓子に月5~6千円は使っているが,ほぼ全部,地域外から仕入されている。原料の出所や栄養価もそうだが,裏の原料表示をみれば驚くほど沢山の知らない添加物が使われてる。 ○お肉類は、お菓子より支出が高いのだが、本当はソーセージやハムへの支出の割合も相当高いのだ。これらも裏の原料表示をみれば驚くほど沢山の知らない添加物が使われている。原料の肉も自宅でベーコンをつくるときに使うような肉ではなくて、色んな肉を集めてノリのようなもので固めているようだ。 〇惣菜や弁当の原料で使う米や野菜も8~9割は地域外から仕入れされている。 〇外食も、例えばファミリーレストランによく行っているとすれば、その料理の原料は?栄養価は?と確認していけば、どうなるだろうか? ▶▶▶せっかく頑張って働いて得たお金のほとんどは地域の外にでて行き、遠くから時間をかけてきた質と栄養価の低い、素性もわからないことの多い食べ物に換えられる。家族のために買った食べ物は質も栄養価もよくなく、体を害するような添加物が沢山使われ、出したお金の9割が子ども達が暮らすかもしれない地域にも貢献できず外にでていくというのはどういうことだろうか? しかも、子どもを外に預けて親が働くことが強く薦められる世の中では,弁当の利用や外食化はますます進み、栄養価が落ちる循環と9割が増える循環が続くのではないか(保育所を否定しているのではない、親の就労の如何に関わらず、子育ての公的支援の仕組みは必要だと思う)。 食費のうち50%を地元で作ったものを購入するように、皆で変えていければ 流通が変わる、地域に結構大きな売上と所得と様々な食べ物をつくる生業が生まれる ▷▷▷と、悲観的な面ばかり指摘していてもしょうがないので、ここでもう一つ表を作ってみた。人口1500人のエリアで食費のうち半分(50%)を地域で作った食べ物(米,野菜,惣菜,パンなど。魚や調味料やアルコールなどは除く)を利用するスタイルに変えていくと,地域はどうなるかというものである。 田舎で1500人というと,平均値的には車で10分程度の身近な生活圏である。そこで食費のうち半分(50%)を地域で作った食べ物の購入に切り替えると、食料だけで約1億6千万円の売上と4600万円の所得が生まれ、15人の身近な若い農家や食に関する生業の生活が可能となる。 ![]() そして,食費のうちの半分が地域の食べ物を買うことに使われると、食べ物の質や栄養価,我々の生活の質にもとてもいい影響があることがわかる。 ◎食べ物では質や栄養価は大分改善されるだろう。栽培方法(慣行農法)は依然問題はあるが,流通経路は短くなり,より鮮度の高いものが販売されるだろうし,旬の野菜や果物がより多く利用されるようになるだろう。 ◎栽培方法も,例えば農薬の使用量の減少などではいい方向に向かうと思う。直売所や契約栽培のような形になれば,生産者と購入者の距離は近くなる。人間,顔のみえる,ときには会話を交わす関係になれば,より使い手にいいものを作ろうとする気持ちが働く。 ◎経済では,地域の農家さんの収益は確実に増える。市場流通では例えば大根1本を100円で市場に出すと,農家さんの所得として残るのは10~20円である。しかし,例えば直売所で売れば流津経費は引かれないので40~50円になる。※だから表の④生み出される所得は③売上×0.4としている。通常はこれが農産物で0.1~0.2,加工品で0.2~0.3程度である。 ◎併せて,例えば車で10分圏内といった身近な様々な野菜をつくる農家さんや所にパン屋さんや惣菜屋さん麺をつくる生業を始めることが可能な環境が整う。 我々の地域が、新鮮なお野菜や、撞きたてのお米や、地域の材料で作った焼きたてのパンやお菓子や豆腐やお茶が普通にある地域になる。 ※この調査では子どもの小さな子育て世帯の定着に必要な所得は少なくとも300万円必要という結果がでている(子どもが大きくなればもっと必要なこともあるが)。そこで、表の④を300万円で割ると,地域の⑤扶養可能世帯数がでる。我々の食費のうち半分が地域で作られた食べ物に使われるようになると、1500人の地域で、生業として米作りで3家族、野菜作りで4家族、様々な野菜加工品で1家族、果物で2家族、パンで1家族、お菓子で2家族、惣菜・弁当で2家族、レストランで1家族の生活が可能となる。 戦前の自給自足を中心としたに地域の形に戻ることか 昭和初期の時代からの村の食業と農村民の買い物の状況をたどってみると このことを色んな方に話していたら、ある方に、それは例えば、戦前の村の時代に戻ることですね。と聞かれた。 そうなのかなと思い、少し調べてみようと本をめくっていたら、宮本常一先生の『中国山地民俗探訪録』に、昭和15~16年に聞き取りされた島根県邑智郡田所村(現在の邑南町田所)の農村住民の買物の様子についての記述があった。 田所村は当時、物流の要衝で大きな牛市が開かれるとともに、麻を特産とし、米の生産条件のよい豊かな村であったらしいから、他所の農村住民の買物状況とは異なるとは異なる点も多々ある思う。しかし、これまで挙げてきた食費データは同じ、島根県の農村住民のものであるから、ある程度、現在と比較してみることは可能だと思う。 ![]() ・買物(PP60-62) 外から買わねばらなないものは多い。 塩…塩は日本海岸から入ってくるものを買った。江津から江川を遡って川越というと所へ荷揚げする。秋になると村の人たちは牛に米をつけ、弁当を持って、暗いうちに起きて、牛をひいて出かけた。…山越に川越へ下るのである。…田津では米を売って塩を買う。その塩で漬物もつければ味噌もついた。 陶器―これは出羽の市に売りに来る。ただしこの十四、五年来のことである。…出羽市で茶碗を売るようになるまでは、ずっと以前のは広島の方から買って来たものであるという。 魚―これは塩と同じく北から来た。今も北から来ることが多い。主として浜田江津方面 から来る。江津からのものはやはり川越で陸揚げされた。鯖、鰆、マンサク、烏賊が多い。広島の方からも魚は入った。蛸、蠣、蛤、かずのこなので、主として年取魚であった。 肥料―肥料にするホシカイワシは都濃津あたりの浜でとれたものを川越の商人が持って来た。ホシカはもとは麻にはなくてはならぬ肥料であったという。…また海岸で五月半頃に鰯がとれると、それをくさらかして水肥にしたのを江川筋の肥料屋がかついで売りに来た。ずいぶん高く売りつけたものだが土地の人々はみな待っていた。 このように昭和初期の段階では、食べ物は基本的に自給自足し、味噌や漬物づくりに必要な塩、地域で採れない魚、麻の栽培に必要な肥料など、どうしてもその地域で産することができないもののみ購入していたようだ。なので、地域で産したものを地域住民が”購入する”という、今の社会の購買行為により食生活が成立するということを前提とした、地産地消とは根本的に異なる。 それが、そのあとどうなったのだろうと、邑南町羽須美地域で知人にお聞きした昭和50年頃の買物状況を少しまとめてみる(なお、同じ邑南町でも羽須美は田畑が非常に小さく、町は江川の物流に関わる生業が多かったため、だいぶ産業構造が異なるのだが、食生活と食に関わる生業のあり方はそうは変わらないだろうという仮定でまとめてみる) ■島根県邑智郡羽須美村(現邑南町羽須美地域)昭和50年代初期) ○豆腐―地域に豆腐屋があり、よく豆腐屋さんが近所まで豆腐を売りに来ていた。豆腐は地元あるいは近在の豆を使っており、地元の方はみなその豆腐を食べていた。 ○醤油ー地元に醤油屋さんがあり、そこで醸造・販売していたように思う。もろみなども調味料として売っていた。 ○味噌ー不明だが、農協の婦人部の女性達などは一緒に自分たちで作っていたのではないか。まだ自分の家で作っている所も多かったのではないか。 ○こんにゃくー旧正月などは自分の家で作っていた記憶がある。 ○魚ー行商の方が日本海側の方から販売に来ていた(いまでも販売に来ている) ○野菜ー畑を持っている家はおおよそ自給していたのではないかと思う。 ○その他の食料ー地元に個人の経営する食料品店があり、そこでその他の普段使いの食品や調味料は購入していた。個人商店はこれらの食品を地域外から仕入れしていたのだと思う。 ○飲食店ー地域に1軒あり、地域住民のほかに、河川工事や土木工事の従事者などが利用していた。 国際分業、規模の経済、経済学、大きな規模の小売業、子ども達の食べてきたもの、地域の食業 このようにまだ色々なものが地域で作られ、販売され、購入されていたのだが、その後、豆腐屋さんも味噌屋さんも個人商店も飲食店もなくなってゆく。どうしてなくなって来たかと家計研のメンバーと話していると、まずは地産地消では価格競争出来ないほどの安価な豆腐や味噌やその他の加工品などが出始めたことがあったのではないかとなった。例えば今でこそスーパーで販売している豆腐でも国産大豆使用として比較的高い価格帯で販売されているものがあるが、一時期は非常に安い豆腐が出回っていた。その豆腐はまず外国産の大豆が使われ、1単位の豆乳からニガリの何十倍もの豆腐をつくることのできるグルコノデルタラクトンなどの添加物が使われていたり、商品を卸す豆腐製造業者さんにかなり安い卸値を要求したりしていた話はお聞きしたことがある。味噌や醤油も同じような状況にあった。仕事柄関連することをヒアリング調査していたとき、醤油だと輸入した大豆粕を数社が共同のタンクで醸造し、それに各社の風味を添加しているということをお聞きしたことがある。もちろん、その中で頑なに良心的な作り方を守られてきた作り手の方もいらっしゃるが、大勢ではそのような価格が非常に安く・品質が悪い豆腐や味噌が世の中を席巻した時期があり、そのとき地域の豆腐、味噌、その他の加工品の作り手はなくなっていったのだ。 そのようにして、地域の加工品の作り手がいなくなったあと、今度は地域の個人商店が大手資本のスーパーの各地への出現で消えていった。こうして、地域の食品の作り手とその売り手は地域から消え、農山村住民の買物先も農協系列のスーパーや都市部の大手資本のスーパーになり、加工食品も都市部や外国で作られたものを買うようになった。野菜もまた、同じような大手資本の売り場展開に応じて形づくられるみんなの野菜の価格感と流通の仕組みとのなかで、外国産をふくめて栄養価や栽培方法を問わない安価なものが商品棚を席巻した。 このような流れの中で、先ほどの表やグラフに示したような食費の構成ができあがったのだろうと。 ”地域で作った食べ物を地域で食べる”の輪を広げることは、戦前の自給自足を中心としたに地域の形に戻ることではない 今のライフスタイルをふまえながら、地域を中心とした新しい生産と購入の文化をつくること 戦前の自給自足を基本とした食物の流通の仕組み、昭和50年代の食料流通の仕組み、現在の食費構造からみえる食料流通の仕組みを比べてみるとわかるように、本当なら、地域の職業の分業化とともに地域に成熟するべきであった様々な食業は成長せず、衰退していった。イタリアやドイツやフランスの田舎を友人と旅したとき、肉屋さんやパン屋さんやジャム屋さんや市場など、そこには今の日本とよりずっと豊かな食業があった。きっと、日本ほど工場の食品や大きなスーパーや大手流通が力ずくで全てを押し流してなくしてしまうようなことは起きなかったのであろう。あるいは皆でそうならないように守ったか。 農山村では地域の食業が成熟せずに衰退し、さらにいまの私達の食卓には、パン、ジャム、パスタなど外国産の麺類、アジア・ヨーロッパ・南米生まれの食材・調味料・お菓子、ワインなど外国生まれのお酒、ジュース、ハムやソーセージや乳製品など、戦前にはあまりなかった食材に溢れている。 それを、「かつての食業が支えた食生活に戻れ」とするべきか。 「否」だと思う。 サツマイモやタケノコ(孟宗竹)は江戸時代に外国から入ってきた。じゃがいもは戦国時代の終わりに、小麦は2000年前に中国から入り江戸時代に今に近い形で食べられるようになってきた。オリーブは大正時代に国内での栽培がはじまり、国内産のオリーブオイルが生まれている。ワインの生産は明治時代にはじまり近年は国際的な品評会でも高い評価を受けるほど品質があがっている。このように外国で生まれ、少しずつ食生活に取り込まれ、それをつくる農家さんや新たな食業が生まれることが繰り返され、それが我々のいまの食卓をどれだけ豊かにしてきたか。 そう、先人がやってきたように、これからも、新しい食べ物も取り入れながら、自分達の食文化にしていく食業が生まれ続けていくこと大切なのだと思う。 そして、 食費のうち50%を地元で作ったものを購入するように変えていけば、流通が変わる、地域に結構大きな売上と所得と様々な食べ物をつくる生業が生まれる これは、地域版家計調査で得たデータを用いて証明した通りである。 いや、いま買っているものを、それぞれの家でもっと自給できるようにした方がもっといいではないか。そう考える人もいると思う。それはそれで、いいではないか、大切なのは自分の家族が口にいれる食べ物をつくることが、いまよりも身近に行われることになることだから。ただ、ものによっては分業した方がクオリティが高くなるものもある。その場合も身近な所でそうなる方が、好ましいと、そう考える。 身の周りにある食材と燃料と科学と情熱で、新しい地域の食文化と食業を作り出そうとする人達 ノブヒェン 先日、知人を夜お伺いした際、ノブヒェンを頂いた。 僕も、家族もこのパンが大好きだ。フワフワしておらず、しっかりとした噛みごたえと旨味があり、甘くなく、色々な料理にもディップにもチーズにもジャムにもとても合う。このパンを生み出した方は、東京から長野に家族で移住した女性で、いまパン屋さんをしている。一度、知人とお伺いしてお話をおききしたら、同じ地域の農家さんとは野菜とパンの交換もされているとのことである。 このパンの材料は、国内産の小麦と、小麦から起した酵母と、塩のみである。一般的に家でパンを焼く場合、使われている砂糖もバターもイースト菌も使われていないのだ。つまり、農村部ならば、塩以外は、すべて地域でとれるもので、とてもおいしいパンが焼けるのだ。 ![]() 焚き火小屋の番人である知人は、個人や家族の規模で、少ない燃料で、いいパンを焼くためにノブヒェン窯をいうツールを作った。 ノブヒェン窯は、火皿、インナーボウル、アウターボウル、スペーサー、火皿の上に置く瓦の5つの部品からなる。火皿に大小の丸いボウルを2つ重ねてフタして使うことで、従来のオーブンやフライパンやナベとは比較にならないくらい、燃料(熱源)からもらう熱を無駄なく使える調理器具である(2重の蓋でインナーボウル内の熱を逃さないようにし、ボウルの丸さで熱をよく対流させ食材に万遍なく熱を当てる)。結果として、この窯では高価なガスオーブンや電気を大量に食うのに火力が足りない電気オーブンを使わなくても、もっと小さな火で毎日のこととして、パンや、ピザやケーキや蒸し料理までできる。いま,私の家は雪に囲まれて屋外で調理できないが,週に数回,普通のカセットコンロでこんがり焼き色についたパンを焼いている。 なお,ボウルは普通の調理用のボウルで,火皿はテフロンコーディングしていないフライパンで,スペーサーは2つのボウルの間の隙間をつくり・調整するものなので燃えない・加熱しても変なガスがでたりしないものがでなければなんでもよい。また瓦は水に浸けて濡らして火皿とパンの間にクッキングシートを挟んでおき,下からの熱緩和とパン生地が伸びるのに必要な蒸気を発生させるためのもので,数片の欠片を並べて厚い皿のようにして使う(詳しい寸法などはノブヒェン窯で検索するとあちこちでの創意工夫がみれる)。 より身近な道具と少ない燃料でパンが焼けるよう,新たな道具を作る人達や使い方をシェアがはじまっている。 ![]() 先程述べた,小麦と小麦酵母と塩と水だけでおいしいパンをつくる技を見出した女性は,いまお店で出すパンを,ロケットストーブの機構を組み込んだ石窯で薪を燃料に焼いている。この石窯に至られた理由は,従来の石窯でパンを焼くには薪が大量に必要で何より薪づくりに凄く腕力と体力と時間を要することであったそうだ。そこで,3.11のあと焚火小屋の番人さんがデザインした瓦を積み上げたロケットストーブの燃焼効率のよさ力と火力を目の当たりにして,このロケットストーブの機構を石窯に組み入れれば追い炊き可能で粗朶なども燃料で使えるのではないかと思い至られ,島根に来られ,そして長野で炭焼き小屋づくりの職人さんと一緒に地元の石を使ってロケットストーブ式石窯を作られた。 ロケットストーブは,ペール缶と薪ストーブ用の煙突等を組み合わせた,持ち運び可能な調理用のキッチンロケットストーブの方向にも各地で進化している。そして,ノブフェン窯は,この燃焼効率の非常に高いキッチンロケットストーブと組み合わせて使われ,沢山の薪ではなくて,もっと手に入りやすい一束の細い木の枝や割竹で,パンも様々な調理もできるようになっている。 うちでも,春から秋までは家の縁側に設置している。パンやピザを焼くとき,屋外でご飯を食べるとき,色々注意はするが,こども達が木端や粗朶をもってくる。そして,パンが焼けるまで火の番をする。 ![]() 農山村地域に「地域に作った食べ物を地域の人達が食べる」を取り戻すには,このような豊かな調理方法の創造と燃料の地産化と燃焼効率向上が必ず必要である。すべてのものを地元で賄うことが必要条件ではないが,地元の材料,人,技術でつくられる部分が大きいほど,地域の中の物質循環は高まり,食べ物の質は高まり,片や経済循環がうまれて新たな収入源と生業がうまれる余地がでてくるからだ。 自分達の食生活や食費を,自分達の手で客観的に把握する手法は整った。 身近に産する食材を使い,豊かな食文化と食業を生み出そうと創意工夫している人達がいる。 より身近で手に入りやすい燃料である小枝や竹を燃料にして使おうと,身近な材料と機材と,科学を駆使して新しい調理ツールを開発している人達がいる。 これからは,これらの手法や技術や開発された道具や,成果や課題のシェアがますます必要になる。 ▲
by mukouno-tani
| 2014-01-10 08:01
| 野研ノート(社会)
1 |
ファン申請 |
||