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拝啓
森の花畑の守人様 朝、目を覚まし、明るい方に目を向けると、窓の外に樹氷が見えました。 例年より、随分遅いですが、向こうの谷に本格的な冬の季節が来たようです。 家の南側の畑も、厚く雪に覆われはじめました。あとニ、三回、しっかり降れば、4月前半まで残る根雪になるでしょう。去年の春に植えた、ラズベリーやブラックベリー、ジューンベリー、クズベリー、タイベリー、夏に移植したガマズミ、秋に植えた2本のライラックが気がかりです。折れないように添え木はしたのですが、冬を越してくれるでしょうか。 ![]() 年を越し、1月も後半になると、雪が溶けたら庭や畑でする作業やその準備について考えはじめます。まずは、春に植えようと思っている花や花樹の苗の購入、その後は、コンポストでできた完熟堆厩肥を、家の西側の小さなハーブ畑と、南西角にあるツル薔薇と葡萄の大鉢と、小川をはさんだ北西の畑に施し、その上に雪の下でしっかり水を吸った落ち葉を山裾からとってきて被せることでしょうか。 春先は風も強く、空気が乾燥していて、庭も畑も耕したままだと乾きます。そこで、前にお話した通り、その上に落ち葉をかぶせると保湿効果があり、秋には土になるということを、昨年、発見しました。併せて、草抑えのため刈草でマルチしてやると、草取りの手間が殆どかからない上、土はふかふかになります。 この写真をみてください。先程お話した堆厩肥、落ち葉、刈り草を用いた土づくりと畑の管理の仕方を2年間した畝に、昨年の秋、混植した小松菜とブロッコリーとレタスです。驚いたことに、ほとんど虫に食われませんでした。秋だけではありません、春から初夏の菜花や水菜や青梗菜やカブも、初夏から秋にかけての茄子もそうなのです。播種や植栽のタイミングも関係するかもしれませんが、梁瀬義亮先生やアルバート・ハワード氏が実証したように、しっかりと土が出来れ来れば、虫への抵抗力も増してくるということを確認できたように思います。 来春からこの農法をできる限り、庭や畑に広げてみたいと思うのです。 ![]() 再び、梁瀬義亮先生の『生命の医と生命の農を求めて』を読み返しはじめました。読むたびに、私は勇気を頂きます。今回は、”生命の農法”を見出していく経過を、いつくか写してみたいと思います。 健康を守る会の結成まで ・・・・昭和三十四年の春・・・農薬の慢性中毒の症状についていろいろの知見を得た私は、・・・或る機会から大阪や東京のアパートで若い奥さんたちを診察して、全員にこの症状があるのを見出した。 ・公的機関を経ずして私が新聞紙上でこの大問題を発表した時の大混乱、そしてその後私に加えられるであろう激しい迫害のことが一瞬私の心に浮かんだ。 ・数日後、両新聞の地方版のトップにこの記事がでかでか報道され、・・・果たして静かな町は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。八百屋の店では一時野菜が売れなくなった。・・・当時ホリドールの濫用は全国的であった。しかし不幸にして五條市地方だけがこれを行っているかの如く誤解された。「大阪の中央市場は五条の野菜を買ってくれなくなった」と農民は叫んだ。 ・私は次々とパンフレットを発行して、今までの所見と私の意見を発表した。その度に両記者はそれを記事にし続けた。騒ぎはますます大きくなった。 ・当時は農薬謳歌時代で、その慢性中毒ということなどは全く考えられていなかった。特に有機燐材には慢性中毒はないというのが当時の定説であった。・・・医学、農学の権威ある人々も控え目なが反対意見を表明した。・・・私に反対する人の動きも熾烈になった。 ・昭和三十四年六月、私が迫害を受けたことが大きく新聞に報道された。・・・町の有志五十数人が集まって、私の後援会を組織してくれて、会名「健康を守る会」と命名した。 農薬使用と害虫増加、農薬の人の心と身体への影響 ・先年、名古屋大学の昆虫学教室から、私たち協力農家の無農薬栽培十五年の稲田と、一般の田との昆虫の生態の差をしらべに来られたことがあった。私たちの田では甚だ多くの種類の昆虫が見出された。・・・ところが農薬を用いている田では、昆虫の総数にはそう変わりはなかったが、・・・ほとんどが農薬に抵抗性のある害虫であった。・・・農薬を散布すると昆虫が死ぬが、農薬に抵抗性のある僅かの種類のみが生き残り、それが天敵がいないので爆発的に増えるのである。・・・これは大部分害虫である。 ・農薬は、それを散布する農民や、農作物中に残留する農薬をたべる消費者の心身を冒し、気力体力の低下をきたす。気力体力の衰えた農民は、一時的な労働の安易を求めて更に化肥に頼ろうとする。また、化肥で生育した病弱農作物は、ミネラル、ビタミン、酵素などが欠乏していて、食べる人の生命力を低下せしめる。これらが悪循環するのである。 無農薬の農法への模索と雑木林での発見 ・無農薬の農法は、化学肥料をやめて有機質肥料で土を肥やすことに解決の糸口のあることを知って、私はそれを実践してみた。うまく成功することもあったが、又とんでもない病害虫が発生して大損害を受けることもあって、収穫の安定性はなかった。 ・「多分、有機質が未だ足りないのだろう」、私は頑固にこう考えた。昭和三十四年の稲作には、私は大いに期待していた。10アールの田にそこで出来た藁を全部返し、その上そこへ乾燥鶏糞を二〇袋、石灰八袋を施して耕起したのだ。・・・やがてそのよろこびも束の間、その田は「稲熱病」が大発生して全滅してしてしまった。同じ主旨でつくったキャベツ畑も虫害で駄目になった。私は途方に暮れて茫然と畑に立ちつづけた。 ・昭和三十五年の初夏であった。・・・山の上の農家へ往診に出かけた私は、山麓で単車を乗りすてて、往診鞄をさげながら雑木林の中の小径を登って行った。・・・「こんなに密生しながら、これらの木々はすごく元気だなあ。一体このエネルギーはどこからくるのだろう」私は考えた。「勿論落葉だ。それにしてもこれだけの木を育て上げるとは。落葉というものは大変なエネルギーがあるのだがなあ」 無農薬有機農法の原則を見出す ・この時私は、無農薬有機農法解決の端緒を得たのである。今までの失敗の原因がはっきりした。 ・自然界の堆肥は落葉や枯草が地上に積もって、その一番底の、大地に接する部分から出来上がる。そこは空気が十分通うから好気性微生物が活動して堆肥をつくる、いわゆる好気性完熟堆肥である。これが植物の本然のたべものである。それだのに、今まで私は有機質を土の中に埋めていた。そこでは空気が十分通わない。だから嫌気性微生物が繁殖する。即ち腐敗が起こり、嫌気性堆肥となる。これは植物にとって正しいたべものではなくて毒物である。この時発生するガスや中間分解物が植物の根を痛め、又それが吸収されて植物を異常発生せしめて、植物の生命力を弱らせる。だから病害虫が発生するのだ。 そうだ篤農家が教えてくれた「土から出たものは土へ返せ」は一言足りなかった。「土から出たものは土にしてから返せ」だ。・・・「完熟堆肥は土の中、未熟堆肥は土の上」 すべきことは実践実証と興論喚起 ・・・・昭和三十五年の秋のことである。・・・事務所で私はその政治家に出会った。・・・私たち政治家や官僚が動かせるものではありません。私たちは興論によってしか動けないのです。今の世は、私たち政治家や官僚が動かせるものではありません。私たちは興論によってしか動けないのです。今の日本では化学肥料や農薬礼讃の興論が国中に広がっている以上、貴方がいくら政治家に訴えても何もできないのです。貴方のそのエネルギーを興論喚起にお使いなさい。廻りくどいようでもそれ以外に方法はないのです。 ・昭和三十六~七年頃の日本は、いわゆる「所得倍増政策」に刺激されて全く狂ったように金儲けと贅沢に浮身をやつし、真面目な「生命尊重」運動などは、およそ興論からは縁遠いものであった。・・・一度興りかけた「農薬の害」及び「正しい農法」に関するマスコミや市民の関心も、その後は薄れてきたし、医学界、農学界も全然この問題をとり上げようとしなかった。 ・有機農法の出席者は激減し、外来の農薬中毒患者は農薬中毒と診断されると軽蔑の眼で私を見た。 ・「・・・しかし私は飽くまでこの運動をつづける所存です。蛍火のような小さな火でも燃えつづけていればいつかは大火になる可能性がある。しかし火が消えてしまえばもう燃え上がることはない。私はこの蛍火を燃やし続ける考えです。」 ・・・・昭和三十八年の冬のことだった。・・・有名な農業評論家から電話がかかった。「貴方はレーチェル・カーソンの『サイレント・スプリング』を読んだことがありますか」・・・それは次第に全国に以上な反響を呼び起こした。「残留農薬による慢性中毒」という事実が認められ、マスコミは騒ぎ、人々は恐怖に陥れられた。政府も研究機関を動員して「農薬の害」についての研究と処置に努力するよう声明した。・・・残留農薬問題に興論はわき上がった。 ・昭和四十二年春、もうこれ以上一開業医が騒ぐことはあるまいとして「健康を守る会」を解散した。・・・有機農法いついては、それまでに得た知見をまとめ、更に研究をつづけることに決めた。 この後、本書は、無農薬有機農法(生命の農法)の理の具体的叙述に入っていきます。 そこには、好気性堆肥による土づくりの考え方と方法、虫とのつきあい方、雑草(植物)とのつきあい方などが記されています。それは農の基本であるとともに、庭づくりの基本でもあるのだと認識しています。 最後に、今回読んだ文中にあって、強く印象が残った一文を写したいと思います。 『近代文明は生命の関与しない部門である工学と工業においては大成功している。しかし生命の関与する部門、すなわち医学、農学、政治、経済、教育等々・・・においては不成功である。・・・医学が発達し、膨大な費用をかけて医療施設や薬物使用にもかかわらず、病人の数や難病奇病は増える一方であり、農学の大進歩にもかかわらず、農業は一向にうまくゆかず、病害虫の大発生、質的量的な生産低下、農家の経済の逼迫、農民の健康障害などが現れて、人々をして「農学栄えて農業滅ぶ」と嘆ぜせしめているのである。』 (引き続き書く)。 ■
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by mukouno-tani
| 2013-01-27 21:49
| 家と庭
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拝啓
森の花畑の守人様 今朝は、ごうごうと吹く風に、家がぎしぎしと軋む音で目がさめました。 向こうの谷では大風は雨や雪の前触れです。こうして書いている間にも、外は次第に薄暗くなり、チラホラ白いものが舞い始めてきました。あすからどのくらい積もるのでしょうか。 一月くらい前から、ヘッセの『庭仕事の愉しみ』を開いており、あと数日で終わりそうです。今朝、フォルカー・ミヒェルズが書いた編集後書きを読んでいたら次のような文章がありました。 「それは彼の生涯で最初の自分の庭であった。この庭で、この少人数の家族は充分自給自足することができた。同時にヘッセはまたこの庭で、九歳の頃母から、自分で植物を植えて世話をするようにと、カルフのビジョフス通りの生家の裏の急斜面の小さな段々畑の一部を任されたころから抱き続けてきた願いをかなえることができたのである。あの子供時代の庭の思い出、あのはじめての遊びを通じて、生物の法則や、成長の法則や、繁栄の法則や、凋落の法則を体得した思い出、花や、トカゲや、小鳥や、蝶の思い出は消しがたいものであったにちがいない。それは彼の晩年の詩の一編にまで余韻を残しているからである・・・・ それがゆえ彼が自分の子供たちがこのような印象を感受できる年になるとすぐに、まずこのボーデン湖畔の、そして後にはベルンの新しい庭で、自分のように自然とじかに接触させたいと思ったのは、うなずけることである。 ミヤ夫人の撮影した写真に、父のまねをし子供の鋤でせっせと地面を掘り返す四歳の息子ブルーノの写真が残っている。・・・「ブルーノはおじいさんから小さな庭仕事の道具をもらって、今では庭のパパの手伝いができるので有頂天である。彼は父がすることを全部正確に真似し、父と同じように足に鋤をのせ、土くれを砕く。・・・」 中学生のとき亡くなった祖父と私と子供達のことが私の中で結びつきました。 私の故郷の実家の所有者が両親に代替わりし、新しい建物に建てかわる前、古い家は祖父の植えた花樹や果物の木の小さな森の中にありました。子供時代、それは、私にとって完結した世界で、樹々を手入れする祖父を追って、森の中で遊んでいました。 少年期、青年期と私はずっと植物や花が好きでした。家族をもち、向こうの谷に移り住んでから、笹の原切り拓いて耕し、家の周りを整える先で、私がはじめたことは、花や薬草や花樹や実のなる樹を植え、森の花園をつくることでした。そして、ときおり、私のうしろで、子供達が遊んでいるのに気がつきます。 このようにして、知識や知恵や技術ではなく、暮らす姿勢として、自然と暮らすことや、森の花園や健康を支える食べ物をつくることが引き継がれるのかもしれません。 おととし、家の南側の庭に、川から拾ってきた石で囲った小さなイチゴ畑をつくりました。畑といっても湿気を防ぐため縁の下に敷いた山砂のあまりや壊した土壁を砕いたものを混ぜたものに、苗を植えを植えただけのいい加減なものでしたが、去年の5月は沢山実をつけてくれました。白い花が咲き、赤い実がなりはじめると、子供達はイチゴの園に入り、ちぎっては口の中にいれていきます。 ![]() 去年は、イチゴの実のなる季節が終わったあとの、手入れが悪かったらしく、9月頃からツリフネソウやドクダミや名前をしらないマメ科のつる植物が繁茂し、11月頃にこれらの草を抜いてみると、新しく伸ばしたランナーの先にも小さな株ばかりついていました。それから丁寧にこれらの根や地下茎を取り除き、つくった堆厩肥を施し、畑の上には落ち葉を敷きました。そのときも、ときおり、気がつけば、子供達は私の周りで遊んでいるのです。 ヘッセの庭の愉しみから想起し、私と庭とのかかわりの記憶を探っていたら、思いのほか長文になってしまいました。今回、記してみたいと思っていた、梁瀬義亮先生の本の後半については、改めてまとめます。 それと、イチゴと相性のいい植物を探しています。ボリジやクローバーがいいと本にも書いてありますが、同じ位の背丈で、別の季節に小さな可憐な花を咲かせるものがいいなと考えています。 ■
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by mukouno-tani
| 2013-01-25 07:59
| 家と庭
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拝啓
森の花畑の守人様 年を越して2週間が過ぎました。今年の冬は、雪が少なく一度もかいていませんが、それでも屋根から落ちたものが積もって、家の周りに1m近い壁をつくっています。 本当は、玄関や家の南側に、薔薇や鉄線や葡萄がつたうパーゴラをつくり、晩春や初夏、花咲くその蔦棚の木陰で、家族と朝食や昼食を頂いたり、ゆっくりと新聞を読んだりしたいのですが、雪との兼ね合いをどうするか、思案中です。 コンポストで作った堆厩肥は、4月の中頃、家の南側の菜園に施しました。 あとで勉強して、試してみてわかったことですが、完熟した堆厩肥でも施したあとは、乾燥しないように上から刈った草や枯れ草や落ち葉を敷いておくといいんですね。堆厩肥の中の微生物や菌が元気であるためには、土がある程度、湿っていることが必要で、敷いた草や落ち葉は保湿マルチであり、菌や微生物の食べ物としての役割も果たすのだそうです。そういえば、春敷いた草は夏には見事にボロボロになり、秋には消えてしまいます。 この春は、このことを知らず、畑の土と混ぜ合わさった堆厩肥は日差しと温度と風でかなり乾燥していましたが、それでも、その後植えた、野菜達は元気に育ってくれました。スウィートコーン、ゴーヤ、ツルムラサキ、落花生、フジマメ、小松菜、ブロッコリー、レタス、コリアンダー。昨年、その畝に施したのは堆厩肥だけなのです。 ![]() ![]() この頃出会ったのが、梁瀬義亮先生の『生命の医と生命の農を求めて』でした。 梁瀬先生は、医師ですが、太平洋戦争の戦地の患者や、離島や山村の住民の食生活と農法と健康状態の関わりを観察し、健康であるための食生活のあり方や、農薬の身体への害の申告さを世に問い、自らも菜園をつくり試行錯誤を重ねた上に、理解者と山腹に農園を切り開き、有機農法の生産者団体と購入する生活者団体までも創られた方でした。現在でも奈良県の5条市に、その生活者団体が運営する食品販売店があるのです。 私は、関西の学会に出席した際に、そのお店に立ち寄ってみました。それは、生産者団体が栽培する野菜やお米のほかに、添加物や原材料の栽培方法に配慮した調味料や加工品やお菓子をつくっている会社の商品も取り扱われていました。店員の方と利用する方が笑顔で会話されているお店でした。 いま、この記を書きながら『生命の医と生命の農を求めて』を引き出して読んでいます。 私の特徴かもしれませんが、忘れっぽいのです。私がいま暮らしの中で大切にしている部分は、間違いなく梁瀬先生の書かれたものの内容にも影響されています。その後、読んだ本も、結果的に、その本の中で紹介された著者であったり、本であったりすることも多いのです。しかし、再び手にとり目を通すまで、その感銘すら忘れてしまうのです。私の知人は、人とは人間関係と居住環境にほとんど支配されている生き物だといいます。本当にそうです。大切なことすら、視界に入らない生きているだけの機械になることがあるのです。 だからこそ、意識して、心静かに、自分の中にある聞こえにくい小さな声を聞くことができる、心静かな一時がある暮らし方をつくることが必要なのだと思います。 『生命の医と生命の農を求めて』について大切と思われる箇所をいくつ写してみたいと思います。ただ、内容は観察と実験と実経験に基づく膨大なものですので、まずは前半の食と農薬と健康に関わる部分を書いてみます。 ・昭和18年の夏・・・当時四回生の学生であった私は、看護婦兼事務員の役を仰せつかって、この行事に参加した・・・佐木島という小さな島がある。・・・主食は米でなくて甘藷と麦で、これに野菜と沿岸漁業の魚と海草を添えていた。・・・この島の住民の健康状態はすばらしく、徴兵検査の甲種合格率も抜群であった。 ・K村という深い山中の村を訪れた。・・・村人は一人当たり一日に湯呑一杯の米で薄い粥をつくり、これを稗と栗の団子を入れたものを主食とし、副食は野菜と大豆が主という貧しい生活をしていた。「この村では、村の衆は病気はしないが、不思議と旦那衆は大病をするよ」 村の老人が私に言った。・・・旦那衆は、町の上等の食料品をたべていた。又、肉体労働はあまりしないのだ。 ・私はI村へ行った。その時、村の古老がこんなことを言った。・・・ふだんは稗と粟だけだったおに、戦争のお陰で米が配給されて、毎日米の飯で、ありがたいやら勿体ないやらです。しかしどうも村の衆は、米の飯になってから弱くなったよ。 ・患者以外に私は健康な人々の生活も手当たり次第調査した。・・・農村は当時闇景気で裕福だった。・・・生活改良普及員が出張して、盛んに動物食をすすめた。闇景気で裕福な一部の家庭は、その奨めに従った。闇米景気にあずからぬ貧しい農家は、昔のままの食生活をつづけた。・・・食生活の差は、なかなか良いデータを提供してくれた。 ・生命力という事実(自然治癒力)、それと生活様式をじかに見てみることが目的であった。昭和27年夏、調査数はついに1万名に達した。例外が極めて多く、・・・いわゆるきれいな結果は勿論出なかった。しかし私は満足であった。というのは、予想した如く生命力の発現(従って健康と疾病)と生活の方式との間の深い関係が、傾向として私に把握されたからである。その知見とは次の如くである。・・・ ②白米を大食して副食の少ない食生活の人は、・・・大病をしたりする。・・・半搗米にすべきであり、且つ副食を多くする必要がある。特に麦飯は大変健康に良い。 ③動物性の食品、特に肉類の過食の人に病気が多く、・・・野菜を多く併用してもこの害は取り除けない。 ④大豆を多く摂る人は健康である。 ⑤野菜海藻を多く摂ることは極めて大切である。…野菜、海藻について注意すべきは、よく咀嚼することである。 ⑥果物はおやつにはよいが、野菜の代用にはらならに。 ⑦白砂糖を多く摂ることは大害がある。・・・黒砂糖や蜂蜜がよい。・・・チョコレートや甘いジュース類は恐るべきものである。 ⑨夕食を夜遅く摂ったり、・・・胃腸を大変悪くする。夕食後就寝までに少なくとも3時間は起きていたい。 ⑬皮膚の鍛錬は大切である。 ⑭姿勢を正しくすること。 ・昭和26年初めから、私は麦飯をたべ、肉を全廃し、大豆、野菜、海藻をよく噛んでたべ、これに適量の魚や野菜を卵を添えた。甘いものは控え、つとめてよく運動し、冷水摩擦や体操を熱心に実行した。結果は予想通りであった。次第に疲労しなくなり、盗汗、肩凝りもいつしか止み、病気も起こらなくなって、すがすがしい健康感が蘇った。 ・世界一の健康長寿国、フンザは医師のいない国である。日本一の健康長寿村、棡原村は無医村である。正しい生活さえすれば我々の病気はうんと少なくなり、長命できるのである。薬や機械によるのではなくて、自身の生命力によって健康と無病と長寿があるのだ。 ・私は熱心に各地の田畑を見て廻り、又教えを乞うた。・・・農家の人々は大抵化学肥料の礼讃者であった。しかし、数少ない篤農家は堆肥の重要さを強調した。彼らは土つくりの要領を「土から出たものは土へ返せ」と教えてくれた。 ・昭和28年、私たちの地方の稲作にホリドール(パラチオン)が使われることになった。・・・ホリドールは第二次世界大戦中ドイツで開発された有機燐性の毒ガス、サリンと同じもので、極めて猛烈な毒性を持っている。・・・戦時中、機械化部隊に属していて毒ガス教育をうけ、兵隊の起こした毒ガス自己なども数々体験していた私にとって、これは大きなショックであった。 ・農林改良普及所長のT氏は大変よい人であった。彼は農林省の指導を信じていた。・・・「マスクをし、ゴム手袋をつけて、長袖を着けてやれば大丈夫です」。そう信じきっていた彼は、そのように農民を指導し、自ら陣頭に立ってホリドールの霧の中へ突進して行った。・・・ ・私は、かつて聞いた篤農家の言葉、「土から出たものは土へ返せ」を思い出して、一縷の光明を見出したように思った。・・・私は早速化学肥料を全廃し、もっぱら有機物(鶏糞、油粕、人尿糞、枯れ草など)と石灰を用いて実験した。しかし期待は外れた。昭和32年の作物は病害虫で散々であった。私は再び絶望した。 ・微量の毒物が連続して長期間摂取される時は、急性中毒とは違った症状が起こってくる。これを慢性中毒という。・・・長年の農薬の慢性中毒患者の診療経験から、慢性中毒には「毒物自身の蓄積」によるもの以外に、もう1つの形があることを知った。それは「作用の蓄積」である。毒物自身の体内蓄積が起こらなくても、その毒物が体内を通過する・・・毒物が体内で分解される過程中に起こってくる人間の体細胞の軽微な障害が、つもりつもって慢性中毒症を起こす。・・・脳細胞に異常が起こり、記憶力、思考力などの低下、いわゆる「ぼけ」や、厭世観、・・・、肝臓、腎臓、副腎、甲状腺などの機能障害や組織学的変化が起こるのである。 ・ホリドール(パラチオン)、テップ、エンドリン、フッソール、水銀剤等々、その猛毒性や永い残留性の故に、現在では製造や使用を禁止されている農薬を、当時の農業指導者は、・・・「大丈夫だ」「大丈夫だ」と農民に使用させ、農民や消費者に大被害を与えたことは実に恐るべき事実である。しかも誰一人その責任を取るものも遺憾を表明する者もなく、・・・ ・慢性農薬中毒の時、脳・神経系統・消化系統・肝臓・腎臓・内分泌系・造血器等々が同時に、最初は機能的に、後には組織的に、緩慢な変化を起こすのであるが、患者の訴えは次の如くである。・・・ ・現在、盛んに用いられている低毒性農薬といえども、緩慢ではあるが、次第に精神の荒廃をもたらす作用があることを忘れてはならない。 ・彼女は西瓜のアブラムシ駆除にスミチオンを散布していた。急に嘔吐と頭痛を催して帰宅し、そのまま寝込んでしまった。・・・有機燐剤の中毒であるとして蚊取線香を止めさせ、市販の果物を禁止し(彼女は食欲がないので果物ばかりをたべていた)、無農薬の農作物のみを食べるように指示して、治療を加え。・・・元気になった。 ・蚊取線香や、同じような作用の器具類の普及で、人々は蚊帳を捨ててしまった。又様々のスプレー式の殺虫剤も盛んに用いられるが、いずれも低毒性農薬である。・・・毎年夏になると、私の外来に頭痛、全身倦怠、食思不振などを訴えてくる患者の中で、蚊取線香をはじめ様々の家庭用殺虫剤である場合が相当多いのである。 ・私の友人にスポーツマン一家がある。彼一家はスタミナをつけるには生野菜と果物が大切だと、毎食キャベツ、レタス、果物などを驚くほど大量に摂っていた。・・・或る日、彼の子息の嫁を診察した私は彼女に相当はげしい農薬中毒症のあることを発見した。・・・ ・農薬は胎盤を通過して胎児に移行する。長野県佐久市の佐久病院長、若月俊一博士の発表によれば、死産胎児の髪の毛の中の水銀量は母親の髪に比して二倍であった由である。 ・最近全国にある多くのモンキー・センターからお猿の奇形の発生について報告されている。・・・その最大の原因は、餌として与えられる蜜柑や林檎の農薬である、と公害学者吉岡金市は叫んでおられる。 ・慢性農薬中毒患者の数は実に多く、・・・その治療で最も大切なことは、新たに農薬を体内に入れないようにすることである。 ・よく農薬を用いる野菜 レタス、キャベツ、白菜、セロリー、キュウリ、トマト、ピーマン、茄子、メロン、及びあらゆるハウス栽培のもの・・・ ・比較的農薬を用いない野菜 ホウレン草、チシャ、フダン草、菊菜、水菜、三ツ葉、モヤシ(なるべく余り白くないもの)、イモ類、大豆、ゴボウ、ナンキンなど(但、菊菜、三ツ葉には水耕栽培のものが多く、これは農薬を用いる) ・慢性農薬中毒の時の食事は、すべて胃腸と肝臓、腎臓を保護するために、やわらかで消化の良い、刺激性のないもにする必要がある。・・・甘いもの、肉類、ハム、ソーセージ、その他油っこいもの、インスタント食品は避ける。全身の新陳代謝をよくするために、それぞれの症状と体力に応じて歩行運動や体操をするのが良い。・・・皮膚マッサージは大変効果がある。・・・脳及び神経系が冒されているので、特に意識して気力を充実し、姿勢を正し、呼吸を整え、・・・。 森の花畑の守人様。 この本に入り込み、書きすぎたのかもしれません。 しかし、私は森の花畑のことわりを学びたく、ほんの少し本を読んでみただけなのです。 そこには、貴方も体験したであろう、昭和20年後半からはじまる、土と生き物と食べ物と農業と我々の健康に多大な影響を及ぼす経済成長と大規模工業と国際貿易と経済に支配された科学の姿がありました。 そのようにして、一度、健やかな身体をつくる理と森の花畑を生み出す魔法も失われかけたのだと。 この本は、これから、生命の農法を求めて という章にはいっていきます。梁瀬先生が仲間とともに、健やかな体を支える食べ物を育む自然の理とそのための農法を見出し、取り組んでいく様を記されています。 もう少し、そことを書いてみたいと思います。 ■
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by mukouno-tani
| 2013-01-16 07:48
| 家と庭
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拝啓
森の花畑の守人様 小さな箱をつくり、そこに野菜くずや引き抜いた草や枯れた野菜達と土と少しの牛の糞を重ねて、堆厩肥をつくりはじめて2年目の冬を迎えました。去年は、箱の上に板で蓋し、過度に水が滲みるのを回避してみたのですが、積雪地であっても思いのほか冬の空気は乾燥していて堆厩肥も乾燥することがわかったので、今年は蓋をせずに雪が積もるにまかせてみています。 こうやって、おおらかに作った堆厩肥でも、菜園に入れると、土がふかふかになり、植えたタイミングや季節もあるのでしょうが、野菜があまり虫にも食われず元気なのも確認できましたよ。 ![]() 2年前の夏、東北を経て、あなたがつくった森の花畑から帰った私は、それまで漫然と取り組んできた庭づくりや菜園づくりを、植物が育つ自然の理と、暮らしと自然との関わりの変遷を、理解しなおす作業をはじめました。 あたたの花畑があることができる理を理解するには、私の知識があまりにも希薄だったからです。 私は農学部でした。農業経済を専攻し、環境や健康の問題に対処するには、もう一度、農と経済・経営の関係性を組立直すべきであると考え、経済と流通と制度を四里四方の地産地用の形に変えられたらと、直売所と地産地消のお手伝いをしてきました。しかし、私は、なぜあなたの森の花畑があり続けられるのか、なぜ、あなたの花畑が私を魅了したのか、何一つ説明することができなかったのです。 そして、最初に手にとった一冊は、有吉佐和子さんの複合汚染でした。実は私の手元に20年近くあったのですよ。そして何度も読もうと手にとったのですが、なぜか心が向かわなかったのです。研究者として硬い本を読むことが無意識のステイタスであったのでしょうか。私の心のおごりでしょうか。そして、いまは、そのようなことにこだわることはあるはずもありません。私と私の業界の人達との認識の隔たりは大きいのかもしれません。 私が複合汚染を読ませた頂くことができた時期、私は高群逸枝さんの『女性の歴史』を読ませて頂いておりました。高群さんは、ご自身の人生の中で感得された家族観を大切になされながら、こつこつと膨大な資料を読み込み、平安時代まで、我が国では名実ともに女性が家族・一族の中心であっであったことを明らかにされました。いまでも実際はそうなのだと思っていますが、かつては婿が通い、生まれた子どもは母親の家のもとで育てられ成人し、母系家族の一員となったのだそうです。それが戦と競争が是とされる世の中になるにつれ、父系家族になり、娘は嫁として家と家の調停に遣わされる慣習ができたそうですね。 女性は事実から理想を紡ごうとするが、男性は理想から事実をつくろうとする。高群さんの研究業績と手記にあらわれる住まわれ方をみてそう思いました。そして、女性の方が女性の感覚を失わず研究されたときに生まれてくる理解は、これから平和で暮らしの充実した社会にとても大切なものだと思ったのです。 繰り返しになりますが、そう感じて手にとったのが、有吉さんの複合汚染だったのです。 複合汚染は、問題に立ち向かう人達への丁寧な取材に基づき、農薬問題、戦争と高度経済成長と商工業と農業の関係性、除草剤問題、洗剤問題、戦後の食生活の変容と健康問題の実際と背景をしっかり研究された素晴らしい本でした。暮らしを豊かに切り盛りしていくことに貧しい職業としての男性学者達が遠く及ばない、炊事、食事、洗濯、掃除、子育てなど生活の各場面と直結した幅広い視点を持ち、自分の研究の(精度)のためではなく、家族や親しい友人達が少しでも幸せに暮らすための研究でありました。仔細はもう読まれているに違いないので、私が心を動かされた節をいくつか写してみます。 ・狩野川の鮎が死ぬまで放置され、漁民が魚をとらなければ金になるという政策が通っていたらどうなるだろう。働かなければ金がもらえるという状態が、どれほど精神を荒廃させるか・・・ ・私の女学生時代の同級生が・・・パリに暮らしてもう20年になる・・・「子どもにせがまれて困っているんだけど、日本では木から落ちたリンゴは、どうやって買えるのかしら」「虫食いリンゴのことよ。リンゴのパイやジュースをつくるのに・・・」 ・工業立国が叫ばれ、まず農村からは大量の人口が工場へ送り込まれた。まるで徴兵制度のある時代に働き手が国策に従って招集されてしまったように。農村は最初、工業によって人手を失い、次に工業製品である化学肥料と農薬によって大事な「土」を骨と皮にされてしまった。公害と呼ばれるものの元凶は、常に工業である・・・。さらに農業は、商業によって滅茶苦茶に喰い荒らされた。 ・畠でとった野菜は、大小とりまぜ、花粉のなごりを止めたまま大きな容器に投げ込んでおいて、重さで販売していけば、農家の手間は省けるし、・・・消費者の食卓には新鮮で、おいしくて、しかも安全なものが届くのだ。・・・選別は、昔は主婦たちが八百屋の店先でしたものだった。 農家は商業と農林行政官の指導のもとに、畠からまだ青いトマトをもいで、時間をかけて形で揃え、大きさで揃え、別々の箱に入れて出荷する。・・・こうして長い旅路でようやく青いトマトは箱の中で赤くなる。しかしビタミンはどんどん減り、味は決してよくなっていない。 ・漬物なんか、どうして買うんでしょうね。安い野菜が出まわる時期に、自分で漬け込んでいいのに。 ・健康な佐木島で、病人がたまに出れば、それはきまって「旦那衆」だった。・・・魚肉を多く食べる島の住民は、概して不健康であり、野菜と海草を沢山食べる佐木島の人々が健康だった。彼らは白米を食べず、麦飯だった。白米をどっさり食べ、おかずの少ない人は短命だ。 ・昭和三十年頃から農村には生活改善指導というのが行われていた。動物性蛋白をとらなければいけない。さかに肉食がすすめられた。危険な防腐剤の入った魚肉ソーセージが、主として農村で売りさばかれるようになった。 農村の人たちに胃病と肝臓病が急増しています。・・・ノイローゼですね。胃病も。精神が冒されると、まず胃へきます。・・・私は患者の食生活の指導をさせてもらいまして、麦飯と野菜を沢山食べるおうに言うてきましたが、魚も肉も食べん人たちが、どんどんおかしくなるんです。・・・まず無気力になり、生きるのが嫌やになってしまうのです。・・・ ・最初の頃は私が不慣れでして失敗ばかりしていたんです。青い草も、野菜の残りも、すぐ土に入れたんです。・・・牛糞、鶏糞、どんどん土へ入れて、却って病害虫がひどくなるという経験もしました。 ・大自然は、落ち葉が土中のバクテリアの作用で完全腐植するまで土の中には入れてはいけないのです。つまり堆肥が完熟するまでは入れてはいけないのです。 ・五條市にある慈光会は、梁瀬先生の患者だった農家と消費者を結びつけて、健康な野菜や果物類と、味噌、醤油、お茶から即席麺まだ売っている販売所である。 ・英国紳士たちは園芸趣味を持つことによって土を忘れなかった。土中の微生物と、土上の植物との関連を注意深く見守り、花と虫、果実と野鳥、そして人間と彼らのかかわりあいを探り続けていた。博物学者たちは多岐にわたる彼らの専門分野で、動物と植物の共栄関係、あるいは動物同士の、あるいは植物同士の共栄関係について、自然界には人智ではまだ理解し得ないものがあることに気づいていた。 ・戦争というものの恐ろしさについて、・・・つくづく思う。化学と生産技術の飛躍的発展は、いつも戦争によって生まれ、そして戦争が終わっても、一度増大した生産力を減少させる企業はない。火薬と合成技術と生産が、平和な農村に化学肥料として送り込まれ、毒ガスが殺虫剤その他の農薬と名を変えて米にも野菜にもふりまかれた・・・ ・日本の農家では必要以上に草を取っているのではないか。百姓だけに農業をまかせていたら、彼らは畦道に大豆をまき、大豆の根瘤バクテリアで土が豊かになることや、稲と大豆が仲良しであることに自然と気がついたようなことが多かった筈だ。農作物と相性のいい草や悪い草も見分けることができた筈だったと思う。 ・フランスの青年と同じ畠を指さして、私は草があるといい、彼は草がないと言った、・・・ ・しかし江戸時代を通じて農政の担当者は武家であり、彼らは今の農林省と同じように「土」を見ず、ただただ主家のために収量本位で農民を追い立てまくった。・・・江戸時代が終わって、百年すぎても、日本の農家の人たちは、まだ草をとることに対して義務感が強すぎる。その結果が、開発された除草剤の夥しい消費量に現れている。こんなことを続けていたら、土が死ぬばかりではない、農家の人たちは・・・もっとひどいめに会うだろう。 ・自分は変な病気になりたくないと思い、親や子や愛する者を病気にしたくないという心さえあれば、それに化学肥料や農薬が何かという正しい知識さえあれば、充分ではないだろうか。 最後に、高度経済成長期のあの時期に、商業や工業をもうけの話と迎合しない者への噂・世論まで使った社会的制裁まで使って振興させようとする社会と行政の力に惑わされずに、一途に農薬や化学肥料や除草剤の問題を直視し、世に訴え、自然と共に健康にあるための農法や運動に取り組んでいた方達が描きだされたいました。 梁瀬義亮先生の生き様に出会わせて頂いたのも、この本のお陰です。 守人様。このように、健康に植物が育つための土づくりや有機農法や自然農法の勉強も少しずつ進めながらも、庭のことを忘れていたわけでありません。昨年の冬からハーブや薬草や様々な草木の勉強も始めたのですよ。5月後半には、ジャーマンカモミールがこんなにもきれいに咲いたのです。 ![]() 私にとって、庭づくりとは、より一層、健康な食べ物をいただくための菜園や山の自然もつながるものとなってきました。少しずつですが、歩んでいます。 ■
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by mukouno-tani
| 2013-01-08 07:30
| 家と庭
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拝啓
森の花畑の守人様 一 守人様 あなたの森の花畑の訪れたことは私にとって大きな転機でした。 一番驚いたのは,あの花の少ない8月の季節に,森のこもれ日の中で,様々な花々が美しく咲き誇っていたことです。そして,森の木々と様々な花達が共生し,虫やミミズ達と自ら豊かな土を作りだす状態にあると聞いておどろいたのです。本では読んでいたのですが,一目瞭然でした。花々は生き生きとし,土はふかふかでした。分けて頂いて持ち帰った花の根にまでミミズがいました。 そして,この森の花畑は,笹の原を開墾して作ったのだとお話してくださいましたよね。 ![]() それは,美しい庭こそは,人々の畑や森や自然との共生への理解と行動の入り口になりうるということです。 花々があちこちに咲く美しい森は、言葉やましては理屈などなくとも、多くの人達の心を揺さぶるでしょう。そして,夏の日のあの美しい庭で体験した、豊かな時間、森の畑で採れたおいしい野菜を頂く感動、そこで得た心穏やかなひとときは、訪れた人達に、自然と共にある暮らしの豊かさや、より具体的には、美しい庭とともにあることで畑はより魅力的になり、美しい庭があることでその奥にある森とつながることができ、美しい庭があることで住まいが周囲に暮らす人々や通りすがりの人々に美しく映えることを、直感的に感じさせるでしょう。 そうです。庭こそは、そこに暮らす人が、畑や森や、花や野菜や果物や、蝶や蜂や、ミミズや落ち葉や土や、コミュニティやそこに暮らす人々との会話や、動物達や、家や焚き火や薪や、新鮮な野菜や果物や、正しい食事や健康や、生態系や循環という言葉についての、自覚的に共生して豊かに暮らすための、具体的な例であり、強力なインスタレーションなのです。人々がそれぞれに、循環する美しい庭をもつことが、暮らしをより豊かにし、子育ちを支え、地域を豊かにし、社会を変容させていく。循環する美しい庭は私はそう確信したのです。 島根に帰ったあと、さっそく私はあなたから分けて頂いた、赤や白や淡いピンクのモナルダや黄色や白やピンクの背の高い花(名前がどうしても思い出せないのです。)を庭に植えました。2011年の夏、東北へおもむいあた帰りに、あなたの庭に出会い、そして、有機農法や自然農法を志す菜園に、頂いた花々を植えたことは、今、思えば偶然ではないような気がします。ある一節を思い出します。 『話を聞きながら 私にも真っ赤なサルビアが見えた。 私が知りたかったことはそのことだと思った 彼女たちは季節はずれのサルビアを今も思い出すことができる。 言葉と一緒に赤いサルビアを植えた人達が花を植える。 そうやって続くのだ・・・』 どんな感情の起伏も、時間が経つと少しずつ、なだらかになっていきます。そしてそれは、人が生きていくために必要なことだとも思います。 だけど、わすれてはならないことがあります。 私は、モナルダの咲く季節になると、私が、なぜ庭づくりをはじめたのかを、思い出します。 あなたに頂いた花々は、菜園を縁取る庭のそちこちに植えられました。そして、中国山地の頂きに近い、この地の厳しい冬を越して、翌年の初夏から秋にかけて見事な花を咲かせました。 ![]() ![]() ■
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by mukouno-tani
| 2013-01-02 21:33
| 家と庭
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