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拝啓
森の花畑の守人様 7月中旬 家の南側の畑では、長野から大切に持ち帰った赤と白のベルガモットが満開です。 ![]() 玄関前の庭では、ギボウシが薄桃色の花が咲き始めました。セントジョンズ・ワートの黄やサルビア・ガラニチカの濃紫やラベンダーの薄紫と混ざり合っています。 ![]() コンポストの箱の横で、薄桃色のベルガモットが咲いています。5月来、庭や畑や育苗に思い切り使ってきので、箱の中の堆肥がもうすぐなくなりそうです。8月以降の草花や野菜の苗づくり、畑の秋冬作の準備には、去年の秋に仕込んだニュージーランド箱の堆肥を使うことになるでしょう。 ![]() 今年から本格的に使用し始めた家の北西の畑ではフェンネルが満開です。紅花インゲンやカボチャの花も開き始めました。 ![]() 荒地を手間をかけずに畑化する試みとして、種を蒔く筋だけ土を起こして、播種したエダマメとトウモロコシも現在の所順調に育っています。雑草にまぎれて発芽したエダマメの子葉は全く鳥やネズミに見つかることなく本葉を出し、その後、私がしたことは、他の作業の片手間にエダマメとトウモロコシの周りの草を抜いてこれらの根元に寄せたことと、畔の草刈が済んだ後に、少し乾燥した刈草をエダマメ、トウモロコシの列と列の間に敷いたことだけです。経験的に、この敷草は来年には土に戻り、畑をフカフカにするだろうと思っています。 ![]() こちらは、トウモロコシとエダマメとヘアリーベッチの混植です。昨年の食用ほおずきの落し種が自生したものも混ざり、こちらも元気です。こちらは畑を耕したのですが、いい具合にヘアリーベッチや食用ほうずきが繁茂し、スギナを若干抜いたぐらいで、草引きもほとんどしていません。 ![]() このようなおおらかな、できるだけ手間をかけないやり方でも野菜が元気なのをみると、どうして、雑草がひと草もないように畑の手入得たれをされるのか、抜いた草が畑から遠のけられるのか、不思議なのです。 このことについて、有吉佐和子さんは『複合汚染』の中で、日本とフランスの農地での雑草観の違いを体験し、日本の一本の草も残さないことが美徳とされる状況がつくられた歴史的背景について考察されています。幾つか書き出してみます。 ・・・・昨年の十一月、私はパリに出かけて行った。有機農業国際会議に出席するためであった。 ・・・・私はバスの窓からフランスの畠を眺めて、草の多いのにかなり驚かされていた。どの畠も日本の農村風景と違って、どこかこぎたないのである。私はバスの中で、案内役のフランスの青年に訊いてみた。 「フランスの有機農業は、草をあまり取らないようですね」 その青年は、「いいえ草はとりますよ」 はっきりと言う。・・・「でも畠が草だらけじゃありませんか」 「そんなことはありません、草は取っています」 「さっきの畠に草が随分あったけど」 「そんなことはない。草なんか、なかったですよ」 「はえてたわよ、随分」 押し問答を繰り返すうちに、次の農家についた。 ・その農家も、日本の農家の人たちから見たら不精としか思えないほど畠に草がはえている。・・・「この畠は、いつ除草するんですか」 「五日ばかり前にやりました。この次ですか、春までもうやりませんよ」 私はバスの中で水掛論をやっていた相手の青年に、「やっぱり草がはえているじゃないの」と笑いかけたら、・・・「草なんて、はえていないでしょう」と言う。・・・二人とも同じところを指さして、しかし叫んだ言葉がまるで正反対だったのだ。私は畠の中に踞り、一本一本の雑草を指差しながら、「これは農作物ですか。草でしょう。これも草じゃありませんか」と、・・・訊いてみたら、フランスの青年の眼にはありありと軽蔑の光が輝き出した。「そんなものまで取るのでなければ除草と言わないって言うんですか。一本も残さず取るのが除草だとでも言うのですか」 ・そうか、こんな畠でも草を取ったと言うのか、フランスでは。私はアメリカ人にもカナダ人にも、この畠が草をとっていると思うかと訊いてみた。彼らはみんな頷いて「取っている」と答えた。 ・・・・「私の国でも、こんなのは草を取ったと申しませんよ。本当に草だらけですわね」・・・絵から抜け出たような典型的な英国式淑女であった。「お国はどちらですが」 「南アフリカ共和国から参りました」 「お国では、除草の方法は?」 「バイ・ハンド(手でとります)」・・・彼女の右手が、言葉と共にバッと開かれた。指の細い、小さい美しい手であった。 ・アンジェに近い農村で、私は共栄植物方式を実践している篤農家の畠を見せてもらった。人参畠には、びっしりとハコベが生いしげっていた。・・・畑の雑草が、日本のものと全く同種であることを確認してから、私は・・・この草はなぜとらないかと尋ねた。彼は英語で、「人参とその草はフレンドシップ(友好関係)を持っている」と答えた。・・・私はそこで、セロリと西洋葱も「友だち」であることや、トマトとハコベも「友だち」であることを教えてもらった。(pp476-490) ・日本の農家では必要以上に草をとっているのではないか。百姓だけに農業をまかせていたら、彼らは畦道に大豆をまき、大豆の根瘤バクテリアで土が豊かになることや、稲と大豆が仲良しであることに自然と気がついたようなことが多かった筈だ。農作物と相性のいい草や悪い草も見わけることができた筈だったと思う。(p495-496) ・日本には幕末よりさかのぼった農業技術史というものがないも同然で、除草について詳しいことは分からないんですけれど、万葉集に田の草取りが唄われていますから、もちろん草取りはしたんでしょうが、フランス人が呆れ返るような一本残さず取りつくしてしまうような草取りをするようになったのは、どうも私の考えることころでは江戸中期ではないかと思うんですがね(p495) ・他の分野で見て、日本人の潔癖性というものがむやみと強調されるのが元禄時代なんですよ、茶の湯が茶道になり、剣術が剣道と呼び名がかわって、実用から離れ、精神主義が叫ばれ出すのは、美術史を見ても、江戸中期なんです。徳川の幕藩体制が儒教中心でかためられていくのと同時です。だって戦国時代の百姓が、田畑に一本の草もないほど丁寧に手入れしていたとは考えられないです。(p495) ・・・・江戸時代を通じて農政の担当官は武家であり、彼らは今の農林省と同じように「土」を見ず、ただただ主家のために収量本位で農民を追いたてまくった。米だけしか見ない彼らに、草は無駄なものとしか考えられなかっただろう。・・・米を作れと命じ、・・・草を取れと命じた。 ・・・・一本の草のないのが篤農とされ、草がはえていれば怠惰のしるしと見做されていた江戸時代が終わって、百年すぎても、・・・まだ草を取ることに対して義務感が強すぎる。その結果が、開発された除草剤の(世界でも類をみない)甚だしい消費量に現れている。(p496) ・・・・「私の後ろから声をかけた上品な御婦人の美しい手をみて、私は確信をもったんです」 「手で草を取ると言った人ですな」 「・・・あの美しい手は絶対に労働していない人の手です。彼女が南アフリカ共和国から来たと言っていたのを・・・思い出したんです・・・」 「南アフリカ共和国は、・・・少数の白人が統治している国なんです。あの上品なお婆さんは、・・・南アフリカ共和国の経営者だったんじゃないでしょうか」 「・・・白人に命令されて一本残らず草取りをさせられているんですよ。・・・私には草だらけみたいだったフランスの畠や、それをみて草なんかないと言ったアメリカやカナダのお百姓さんのこと、はっきり納得できたんです」 日本はフランスより、はるかに植勢が強いと思います。瀬戸内か太平洋側か日本海側か、東か西かでずいぶん差があるとおもいますが、それでも雑草の勢いは日本の方が遥かに強く、草との付き合い方では異なる部分があるでしょう。また、畑と田では草との関わり方が異なる部分があるでしょう。 他方、有吉佐和子さんが述べる通り、幕府・藩(今でいう行政)の農政により、江戸時代中期から農業の様子は随分変容したようです。 農業水利学者の玉城哲氏は『水紀行』にこう書かれています。 ![]() ・新田開発のやりすぎによってひきおこされた水資源の希少化は、「水論(水争い)」の多発となってあらわれた。・・・元禄・享保期が、このような論争の最初の多発時代であったようにみうけられる。この時期は、新田開発がクライマックスに達した時代でもあった。(p23) ・・・・10世紀から15世紀にいたる荘園時代の田畑面積の平均は、おおむね105万町歩、1559年の太閤検地では206万町歩、・・・さらに幕藩時代の享保期には297万町歩に達したという推定がある。」(p20) ・石高制」経済は、大名達の「米」への強迫観念を生み出した。領主経済を強化し、武力を維持するには、まず何よりも米を百姓から徴収しなければならなかった。」(P21) さらに、江戸末期に近い、文化・文政期には、江戸を中心とした都市経済(消費経済)の無秩序な肥大により、各藩の税収であった米の厳しい取り立てに輪がかかっていたようです。さらに、幕府では消費や流通をコントロールできず、まるで現代社会のように、農村コミュニティ(現代ではそれが国外にまで広がっていますが)と自然環境の疲弊という状況が生じていた可能性があります。 有吉佐和子さんは、『真砂屋お峰』の中で、その様子を描写されています。本書はフィクションなのですが、有吉さんはしっかり時代考証される作家さんで、非常に見識の広い方ですので、その内容は文化・文政期をしっかり描写していると思っています。 真砂屋は材木問屋です。他の材木問屋がほぼスギやヒノキを扱うなか、真砂屋は、ナラやヒバなどの雑木を扱い、廉価で長屋住宅の建材などとして供給している材木問屋です。真砂屋は、市井の長屋の建て替えなどに木材を丁寧に販売してきたのですが、江戸の度重なる大火でスギやヒノキや工賃が高騰し、大工の徒弟制と技術が崩れ、農村部では大金が入ることで、堅実な山林育成が崩壊していくのです。他方、江戸の大火が生み出す需要がなくては経済は回らなくなっていきます。そして、江戸での肥大する一方の支出を賄うため、農村部では各藩により徹底的に税が課せられ、農村部は疲弊しているのです。 幾つか、その様相がわかる文章を抜き出してみたいと思います。 ![]() ・代々の公方さまは奢侈御禁令をやかましく御布令になったけれども、町方の者たちの間ではそんなものは発令当座だけのものだった。何しろ公役はさまざまな手をかえてて取り上げられたけれど、肝心の儲け高に対する税制というものはなかったので、百姓は田の稲を丸どりされて食うに困っていても町方はおよそ公役で苦しむということは滅多になかった。むしろ年々に何事も派手に贅沢になっているのが江戸の暮らしの赴くところであった(p24)。 ・・・・江戸にいる者には分かるめえなあと彼らは口々に同じ境遇の者同士で肯きあっていた。・・・田舎では年貢の取立てがむやみに厳しくなる一方で、元気なときはいいけれども病人を抱えた百姓は娘を売りでもしなかればとても食いつないでいけないという。蝗が湧けば百姓は飢死によ、江戸の人間には分かるめえなあ。・・・叩き大工の手間賃が、田畑這いまわった揚句に血を絞るように持って行かれる年貢のことを思えば、彼らにはどのくらいありがたいか分からないというのだ。・・・甚三郎は日本橋のまんまん中に生まれた江戸っ子で百姓のくらしむきについては、分からない。しかし・・・今の尋常ではない賑わい方は、ひょっとすると田舎の方が尋常ではなく貧しいせいではないかという気がする(pp33-34)。 ・「・・・私が物心ついて今日が日まで物の値段は高くなっても下がったことがない。公方さまが幾度御禁制を出しても人の贅沢にきりがない。盛り場に集まる女や男の衣装の贅沢さはどうですか。江戸は春が過ぎた大火の後でも人間は浮かれるのをやめない有様ですよ。焼跡が片付けば、・・・大工も左官もひっぱり凧で、間なしに江戸中が景気のいい物音に包まれて木の香りの匂う新築の家が並びますよ。けれども栄えているのは物売り町人だけですよ。お武家衆の懐具合はお寒くなる一方です。江戸のお屋敷じゃ経費が大変で、お国許じゃその分に年貢のとりたてを厳しくする。けれども田畑に小判は実りませんからねえ。(pp125-126) ・「末世ですねえ。大火の焼け跡を見て、私はしみじみ思いましたよ。大岡さまの御触れに従って、みんなが土蔵に住むようになっていれば、こんなことは防げたのに、誰も先のことは思わない。今は焼け出されて気落ちしている連中も、間もなく家が建つにつれて浮かれ出すでしょう。家はいよいよ手軽く建つようになりました。大鋸が出来たのは私が子供の頃ですが、・・・大鋸を使えば板はいくらでも薄く切れる。火事の度ごごに板は薄くなる一方、柱も細くなる一方、これじゃ、いよいよ燃えやすい。今に国中の材木という材木は、江戸で盛大に燃やし尽くしてしまうでしょう。」(pp128-129) このようにみていくと、その様相は、加工貿易により外貨を稼ぎ、公共事業や大規模再開発により需要を喚起し、国内の農産物価格を統制するとともに、海外から廉価な外材を輸入し、サイクルの短い住宅を大量生産している、高度経済成長から今日までに至る、社会経済に様相が似ていると思うのです。 続けて、このような文化・文政期の消費経済の影響で、材木屋や大工や山の所有者の価値観が変容していく部分の描写を書きだしてみたいと思います。 ・・・・江戸の材木商は明日から木がほしいから杉も檜も見ている目の前でどんどん値が上がって行くんですよ。・・・真砂屋は、杉や檜は先祖代々扱わない店なので、・・・けれども此の度は檜葉が急に値上がりして慌てさせられましたよ。檜葉は見かけが檜に一番似ているので、明日は檜になろうというのであすなろとも呼ばれている樹木ですが、檜ほどの強さも硬さもない雑木だってことは若旦那は鉋を扱っておいでだから知っているでしょう。私は檜葉が檜葉として買われ、檜葉として売られる分には一向にかまわないのですが、おれが上材の檜と偽って売られるのは火を見るよりも明らかなので、どうも心平らかではいられないですよ。杉や檜は木目も美しいし、狂いの出にくい木材で、しかも古くなるほど艶も出る上に硬さも増すというまずこの上ない上等の材料ですが、こう火事が続くと燃える分と山で育つ分tの釣合がとれないのですよ。(p117) ・こうして家の中で寝ていても、細い柱や薄い板が飛ぶように売れているのが分かります。今に紙のように薄い板を挽子が挽いてみせるでしょう。・・・建ては半鐘を打って、竜吐水も間に合わずに燃えてしまう。鳶も所詮は人の子ですから火には刃向えるものじゃない。大工の建てたものを突き崩して火を防ぐのが関の山です。・・・江戸は火事でまず三年から五年ですねえ、家が保つのは。(p137) ・・・・材木屋が金の餌をまくと釣られる不心得な山持ちも殖え申した。あちらも悪いが、こちらも悪い。山の奥まで伐り過ぎて、雨が降れば大きな土砂崩れが起こって、村一つ流されるなどあちこちに罰が当たっとり申す。・・・木は伐れば一代の終わりじゃで、よう考えいと若いもんに声のかぎり言っても年寄りは口喧しいと嫌われるんでな。・・・平地の雑木も、伐るわ伐るわ、いい値で売れるっちゅうて土百姓どもは転げ廻って喜んどるが、蒔かぬ種は生えぬ、・・・そこを田畑に開墾するならともかく、持ちなれぬ金を持ったが地獄の一丁目で己が田も打ちちゃらかして遊び呆けている百姓が増えました。江戸の材木も足るまいが、田舎は薪が足らぬのよ。手近な雑木は全部伐って売ったによって。(pp221-222) ・「・・・旦那さま、このままでは真砂屋は末が思いやられます。江戸中の材木屋が雑木を扱いはじめました。大黒柱に平気で黒松を使う大工も殖えました。もしも幸いに江戸に火事がなくなれば、江戸中の家も屋敷も柱が歪んでひん曲がってしまいますよ、このままでは。もう現に障子や襖の開けたてが不自由になって、建具屋がその度に呼ばれては障子の上下を削っていますが、柱が曲がって鴨居が落ちてきているんですから、」(p247) ・「・・・当節は似ているだけで檜葉を檜と偽って売り買いなさる方々が増えましたんで」 「・・・騙されている方が気の毒だ。大工が見りゃあ一目で分かりますからねえ。家ってものは建てる人間のものじゃねえ、住む人間のものなんだから、生木を使って建てた日には虫もわくやら家も歪むやら、中で住む身になりゃ先へ行って大事だ。そんなことは、これっぱかしも考えぬ手輩が増えましたよ。・・・さて本当に世の中は景気がいいかのか悪いのか、俺なんかには見当もつきませんや」 それから儀助は大工の料簡も変わってきて、田舎から飢えて出てきて鉋のかけ方、釘の打ち方から手を取って教えてやった連中が、ようやく半人前になったくらいで、僅かな手間賃の高さに釣られて出て行ってしまう、といって嘆いた。 「・・・あの連中があの程度の腕で、どんな家を建ててくれるのかと思うと、それが恐ろしいんですよ。ああ、何もかも」(p212) ・・・・文政12年の大火以降の値上りは昔の記録とひきあわせても異常だった。何しろ昔と違って世の中がむやみに贅沢になってきている。大昔には大々名の奥方でも滅多に口に入れられなかった砂糖が、近頃は子守っ子でも買い喰いしている饅頭の中にふんだんに入っているのだ。(p213) ・今年は火事がなかったが八月一日、江戸に暴風雨が起こり、竜巻も足った。・・・武家屋敷は流石に堅固な建築で、雨漏りや床下浸水ぐらいで被害は僅かだったが、粗末な材料で壁も薄く、屋根もぞんざいに葺いたいわゆる裏店が大被害を受けた。火事と違って天気になれば柱も床板も乾けば元通り使える・・・長屋の住人といえば職方で、大工、左官、指物師などがその中で景気のいい連中、続いては染物屋の職人、扇や蒔絵などの細工をする連中になrと、もうばったり仕事がなくなって、火事のない江戸ではこういう連中の小さな竈の火も消えてしまっているのがわかる。(p281) ・天保四年、江戸には遂に火事らしい火事は一度も起こらなかった。しかし、いや、そのために江戸の下層職人たちの暮らしむきは苦しくなる一方だった。公儀は江戸の米問屋に米穀の搬出を固く禁じ、他方では諸国の米を人口周密な江戸へ送らせるのに躍起になった。この年全国的な大飢饉であったが、不作に苦しむ百姓は欠落して江戸に逃げ込み、江戸の人口は膨張し、物価の急騰に拍車をかけ、公儀は暴動が起こるのを最も怖れて、細民に施米することで危機をきりぬけようとしていた。(p296) 守人様 『江戸農法』という言葉があります。主に、近代や現代の農法、農業、農村構造の問題点の始まりとして使われていると思います。かつてから、江戸時代の農業やまちづくりが、礼賛される度に、何か違和感を感じていた私にとって、その言葉の用法は、とても気にかかるものでした。 江戸期は長く、その中で素晴らしい文化や技術が醸成されたのは、全く勉強不足ですがおぼろげながら知っています。他方、その江戸期にあっても、長いスパンでみれば、特に末期において、農業も都市の運営も建築も文化も、消費・流通経済に無自覚に蝕まれていったとみれるべきなのだろうと考えています。 そして、江戸農法とは、江戸後期・末期の江戸消費経済が膨張する裏側で、各藩諸国が江戸での出費を賄うために農家に米生産への集中特化や商品作物への集中特化を進めた結果生じた、金肥に依存する単作農業なのではないかと、思っています。 『真砂屋お峰』に出会い、その部分がとてもわかりやすく、描写されていたので、力が入り思わぬ長文になってしまいました。梁瀬義亮先生の『生命の医と生命の農を求めて』の読み直しはあと一回で終わりそうですが、次回にその作業をしようと思います。 それと、これを契機に、江戸期の流通・生産や、山林・木材流通にも目を向けてみようと思っています。 (続けて書く) ▲
by mukouno-tani
| 2013-07-28 15:35
家の南西にある畑の木立の根元に、クレマチス ガンジー・クリームを植えて2年目の春を迎える。
蔓は木ををつたい登り、2メートル超の高さで花芽をつけるようになった。 周囲の背の高い草をとること、競合するヤブガラシやヘクソカズラの蔓を取り除くこと、根元を年に1~2回、ひいた草や刈り草でマルチすること、これだけのことしかしていない。それなのに、大阪のアパートで鹿沼土や培養土や肥料を沢山使いながら大鉢で繊細に育てていた頃より、ずっと逞しく、猛々しく、豪華に、凛として、花をつけるものだと思う。 ![]() 2011年の夏、長野で、そのまま奥山に誘われるような、植物と土の理を理解すればこうも庭とは豊かで美しくなるのかと感得できる、守人さんが形づくった森の花園をみてから、あのような庭はどうしたらできるのかと、土づくりや野菜や花や花木の本や、庭と暮らしについての手記や歴史や研究を読み、試行錯誤で、庭や畑に働きかけてきた。 植物の生育には、土の中に腐植層(微生物や菌と植物の根の共生層)ができることが、何よりも大切なことがわかり、田んぼの草刈や道刈ででる刈り草を積んで、堆肥をつくり、植物の苗や株の植栽や播種のたびに鋤込み、また、菌や微生物や根が働きやすいように、草や落ち葉で地表をマルチすることを続けてきた。 約1年を経た去年の秋頃から、土や植物の様子は目に見えて変わってきた。 土がふかふかになり、除草や植栽はとても楽になっている。酸性度の高い荒地に生える、スギナやスイバやギシギシやスズメノテッポウは少しずつ減り、中性の土地に生えるホトケノザが繁茂するようになってきた。 ![]() ホトケノザの群生や、スイバの小さな濃い桃色の花のかたまりも、園芸種に比肩して、美しい。 地方の街中に生まれ育った私、転勤族の家庭に育った妻、その私と妻を親に持つ子ども達。 一度、自然と共に暮らすことから離れてしまった私達家族にとって、庭は、毎日の生活の中で自然の営みに常に気持ちを向けるきっかけを与えてくれるものであると思う。仕事への出勤の朝や帰宅の夕べ、子ども達の登校と帰宅の朝夕、忙しい様々な家事の合間にも、植物達は、小さな花芽や新芽や、上へ上へと伸びる弦や、色とりどり形とりどりの本葉や、日々変わる枝ぶりで、私達の目を惹いてくれる。 そして、庭は、四季折々の美しい花や果実や薬草のある暮らしの風景を作り出す庭師になるよう、常に私達家族をいざなう。花々に手を伸ばさせ、赤や紫色に熟した草の実・木の実を口に運ばせ、繁茂し過ぎた野の草を曳かせ、徒長した枝を選定し、挿し芽を試みさせ、植物の元気がなくなれば土の様子を確認させ、根元に堆肥や敷草を曳かせ、そのようにして、自然の営みと家族のライフスタイルを再同期させてくれる。 私にとっては、土の中を含めた自然の働きと植物の健康と自分や家族の心身の健康の関わりについての論理のつながりや、それをライフスタイルとするための庭づくりという体験的理解の方法や庭の空間デザインの考え方について、少しずつ発見の機会を教えてくれる。 ![]() ![]() 春の向こうの谷の道を歩けば、道際にはタチツボスミレやイカリソウやキンボウゲやベビイチゴの花が開き、見上げればホウバやナラやシデが一斉に新芽を吹き出し、フジの花があちこちで満開である。 ときおり、妻や私が、向こうの谷の古老達とお話をする機会があると、彼の方達は、これら自然の様子をみて、夏や秋の天気を先読みし、おおきな気候の変化を感じ取り、ご自分たちの田や畑や山仕事のことを差配されているようである。 私達の家の庭や畑の回りにも、前に暮らされていたおばあさんが植えられたと聞いているが、早春から梅、レンギョウ、水仙、椿、ヤマブキ、桃、山桜、スノーフレイク、黄色ツツジ、クレマチスと花々が順々に咲いてゆく。それは、様々な畑の作物の播種や定植の時期とも合致していて、おばあさんの花々は、向こうの谷の自然とつきあい方を教えて下さる。 そのようにして、私達家族も、ほんの少しずつではあるが、庭の様子、畑の草々の様子、道沿いの草木の可憐な花々や新芽の様子、森の木々の様子からも、今年の自然の運行を読み取り、畑をつくり、山に入り、暮らしを合わせるようになっているようになってきている。 ・春先の森の中の匂いが、よく完熟した堆肥と同じ匂いであることに気づいた。落ち葉が微生物や菌類によりさかんに食べられている(腐植が進みはじめた)ときに発生する匂いなのだと思う。 ・田や畑の草が勢いよく伸び始め草刈が必要になる時期が、堆肥づくりを開始する時期と重なっているのだろうと感じ始めた。草が成長するということは、草の根と共生している菌や微生物が盛んに活動しているということであり、菌や微生物の力を大いに借りる、堆肥づくりが自然にできる時期になっているということではないかと思う。 ・長雨になる前に、特に野の草達は、たとえ日照りが続いていようとも、一斉に生長の速度を早めているように思う。雨の降る前日、つる植物は一斉に天に向けて穂先を伸ばし、大きな草の陰で一斉に新たな雑草の新芽が伸び始めている。 少し視点を広げてみる。自然との関わりにおいて、私達と同じような背景を持つ家族が世に多いとすれば、田舎の庭は、今の世に大切な役割をもっていると思う。 庭とは自然の具体的な美しさや自然とつきあい暮らす豊かさの発見へといざなうインスタレーションであり、自然とともにある暮らしをつくる術を身につけるための体験の入り口になると思う。 それは、植物界そのものが健康である理とと心身と社会の健康の密接な連動についての、家と地域で脈々と引き継がれてきた知恵を失ってしまった我々が、改めて理解を進めるための入り口でもある。 そう考えたとき、我が国の田舎の庭づくりの今日的課題の一つは、庭と地域の植生のつながりをどうとりもどすかということと、経済の産物である園芸種や外来種をどう捉え、どうつきあうかにあるのではなかろうか。そして、それは、19世紀後半の産業革命と大貿易時代のイギリスの庭づくりにおいてすでに発生しており、ウィリアム・モリスやガートルード・ジーキル、ウィリアム・ロビンソンら実証的研究者達が対峙したことではないか。 ジル・ハミルトン/ペニー・ハート/ジョン・シモンズ著『ウィリアム・モリスの庭』では、都市を中心に工業化と無機化が進む世界に対し、田舎での自然とともにある暮らしを基点とするライフスタイルと経済活動を具体的に実証した、これら先人達の当時の庭づくりについての課題認識、消費的園芸に対峙する庭づくりの考え方、技法論が紹介されている。 ![]() ~消費的園芸時代の庭づくりについての課題認識~ ・工業化時代の新興成金が顕示する富の中には、園芸狂が取りそろえた各種の草花がぎっしり詰まった庭があった。不幸な外来植物のいくつかは、外国から来た動物園の生き物同様、ただその風変わりな見かけだけで選ばれたのだ。それをモリスはこう非難している。 『珍しいだけの植物、「自然」が、美でなくグロテスクを意図して作った植物、そして、暑い国ではふつうに育つ芽が出るのが早すぎたり、茂りすぎる植物。ジャングルや熱帯の荒れ地からくるような、人が住んでいない家からくるような非常に変わった植物は、侵入者であり、敵であると覚えておいて下さい。植物園に行って、それらをよく見て下さい。・・・けれどもそれら植物を、煉瓦造りの町の間にある、煙ってずぶ濡れた地面のかけらの中で餓死させてはいけません。・・・』(p27) ・プラントハンターと船員たちは、世界中から、冬期霜除けを要する耐寒性植物を多数輸入した。その中には、ロベリア、カルセオラリア、アンティリヌム、アゲツラム、ペチュニア、ベゴニアがあった。イギリスの冬には不向きだった植物の大規模な販売が可能になったのは、一八五四年、ガラス税が廃止になったらだった。それは巨大な営業用温室の建設を可能にした。それに加えて、イギリスの気取った家庭ではどこでも、少なくもと一つのグリーンハウスか温室をもっていたい。安い光と熱は、大量の熱帯植物が今や生存できることを意味した。・・・たとえば一八三〇年には、一五〇〇種ものダリアがあった。(p27-28) ・これら新しい品種の多くは、ビクトリア朝に大流行した”移植の植え込み”―毎年生産された傷みやすい若苗をびっしりと寄せ植える―また”毛氈状の植え込み[毛氈花壇]”―低く育つ色のついた観葉植物で入り組んだ模様を作る―に用いられた。(p28) ・ビクトリア朝の造園家によって好まれ、同時にモリスによって嫌われたのは、手入れが少なくてすむ低木の植えつけのための耐寒性常緑樹だった。中国、日本、そして新大陸から、ツツジ、椿、斑入りの月桂樹、チリ松その他の針葉樹がもたらされ、増やされ、そしてしばしば地元の木や低木と植え替えられたのである。決して枯れない葉は土壌を太陽から隠し、春の花も含めて、地面の植物相の生長を遅らせるのである。(p30) ・モリスは、世界はかつてないほど均質化してきた、そのたに地域の独自性を確立する必要性が生じている、としている。場所の名、言葉、方言、食べ物、ビール、建築そして景観における誇りは、かつても現在もますます貴重になっている。同様に、その場所のほうとうの中心となる、地域の植物相はきわめて重要だった。(p20) ・フローリスト〔花卉栽培家〕という語は、モリスの時代には、花の大きさや花弁の数を増やすために花を交配し、より目立つ八重咲きに改革する育種家を説明するために用いられた。・・・モリスは自然な花を大切にした。そして植物に対するそのような操作と、その結果過剰開発された花・・・の氾濫を嘆いたのである。(p24) ・・・・「芸術への希望と不安」と題して出版された講演の一つで、彼は聴衆にこう教えた。 『八重咲きの花には用心深くあって下さい。可愛い花の房が目立つような、昔ながらのオダマキを選んで下さい。ぐしゃぐしゃになってしまうような、八重咲きのではありませんよ。・・・(もし手に入るなら)真ん中が黄色い、昔ながらのエゾギクを選んで下さい。・・・八重咲きの花には、得するものは何もなく損失ばかりが大きいのです・・・』(p25) ・・・・それは最近、ケンブリッジ大学植物園で証明された。実験は、一重の花は昆虫にとって貴重な花蜜源である、と示したのである。近代の多くの栽培品種は、蜂に乏しい食物しか供給できなかったのだ。新種の花の幾種類かは、花蜜を少ししか、あるいはまったくもっていない。花蜜を作るものもあるが、昆虫がそれに届くことができない。八重の花びらか、あるいは開花期の”改良”に邪魔されるからだ。(p25) ~庭づくりについての考え方~ ・芸術に対する彼(モリス)の革新的な取り組み方を方向づけたのは、中世のイギリスだった。それはまた、園芸学に対する彼の態度を確固とさせたのである。”美と用”という彼の金言通りに、日陰を作るあずまやがあり、果樹、野菜、薬草、花が繊細に組み合わせれた中世の庭の実用性に彼は感嘆した。(p14) ・・・・彼がとりわけ望んだのは「工場の汚れた裏庭の土地を庭に転じること」だったのだ。(p14) ・庭園デザインと植物遺産に関するモリスの原則は、十九世紀末と同様に今日でも効力がある。彼は、自然と形式を、また昔ながらの植物と新しい導入植物を、完璧なまでに統一するよう努力したのだった。・・・伝統的な材料と地元に生える植物を使うことによって、工業化されたイギリスを再生する方法を彼は探求した・・・(p16) ・モリスは、公園に建てられたパラディオ式の邸宅をまったく嫌った。なぜならばそれは、その地域との関係性や連続性がないからである。彼は石でも塀でも、納屋や建物であろうと、その区域の伝統からもたらされる構築物を好んだ。土地言葉の使用を初期の頃から提唱した一人として彼は、地元の材料を使うことで、地域の独自性に誇りをもつことを再確認したのである。(p20) ・モリスのねらいは、どこにでもある場所の美しさ、とりわけ地域の植物相の美しさを広く知らせることにあった。(p22) ・・・・講演「最善を尽くすこと」(一八七九年)で、彼(モリス)は造園家たちをこううながした。「花を咲かせる場所を、自由に面白く生長する植物で満たすのです。そしてあなた方が願う複雑さを出すことは「自然」に任せるのです・・・」(p24) ・モリスにとっては、家は誰の人生においても著しい特徴だった。「もし、最も重要で同時に最も重要で求められている芸術品は何か、と問われればこう答えるだろう、美しい家、と」。庭は、家を周囲の地域とつなげるための花の延長線として機能して、建物を「まとう」ものでなければならい、と彼は確信していた。(p17) ・モリスの庭は機能的な場所だった。庭からもたらされた食物の食事をし、そこでリラックスし、そこで遊んだ。彼の見解では、庭は家庭のために食べ物を生産するべきであった。(p32) ・ケルムスコット・マナーの食卓には、庭からの新鮮な産物がのった。季節のさくらんぼ、苺、ラズベリー、スグリ、林檎、杏、そして自家栽培の緑の野菜だった。マートン・アビーの仕事場にさえ、大きな菜園があり、アスパラガスなどのごちそうをもたらした。(p33) ・モリスと社員にとって、マートンは、クイーン・スクエアーのごみごみした埃だらけの仕事場からの、喜ばしい解放だった。彼らは、産業は庭のある庭のある場所でも発展することができる、と証明したのである。(p123) ~消費的園芸時代に対峙する庭づくりの技法論~ ・ジェキルはモリスの方針を採用して、その場所と完全に調和する庭を作る前の最初の段階にすることは、周辺の田舎を調べることであると信じた。(p140) ・それぞれのエリアには、「最も良く繁茂し最も美しく飾る木々や植物の分類を、注意深い観察者に示す」固有の植物相があり、それらに、エニシダ、ローズマリーやラベンダー、フロミスのような植物を加えることができるだろう、とジェキルは述べている。(p147) ・・・・(ロビンソンは)読者に、少なくとも一部分は原産の花を植えることの利点を知るようにうながした。彼の目的は、豊かで維持も簡単な庭を作るために、自生植物と昔から定着している輸入された耐寒性植物を混ぜ合わせて、自然な、不規則な吹き寄せの中で育てられる、と証明することだった。そして、野生植物と形式的な植物はともに組み合わせられる、例えば、野薔薇は花の庭の低木の植込み、あるいは塀の上によじのぼらせて使われる、と述べた。(p140-142) ・モリスは、素朴な自生の花の美しさを喧伝する一方で、コテージ・ガーデンの花々や、アカバナインゲン、向日葵、チューリップ、マリーゴールド、スノードロップ、時計草、マドンナ・リリー、ジャスミンなどの外来の花、そして林檎その他の果物の木も用いた。モリスのパターンが、百合のそばに、ニオイニンドウ、イチイといっしょに栽培された薔薇を見せているのとちょうど同じように、目立たないけれど育ちのいい植物を、より際立った外来種の花と混ぜることによって、しだいに地域の植物相を既成の庭の中に織り込み、庭の質を高めることは可能である。(p159) 向こうの谷の私達の庭にも、ホームセンターや園芸ショップで購入した沢山の園芸種や外来種の草や木を植えた。これらハーブや草花や果樹は、確実に私達の生活を豊かにしてくれている。また、庭には薔薇や芍薬やシャガ、畑にはオオイヌフグリやシロツメグサなどの帰化植物がもともと植えられていた。これら植物はすでに、この地域の風土に馴染んでおり、季節の移り変わりや、その年の気象の特徴や土の状態を教えくれている。 ただ、庭づくりのために消費するように珍しい種や苗を購入することはやはりできるだけ回避すべきだと思う。また、向こうの谷の路傍に可憐に咲いている草花を自生地に負荷をかけないことには配慮しながら庭に取り入れることは、日々の暮らしの中で、自然の営みを感じる範囲を広げるためにも重要なことだと思い始めた。なにより、気をつけてみつめるよういなると、路傍や畑脇の花々は、可憐で、逞しくて、美しい。 去年の夏頃から、路傍や山裾にある野の花々を少しずつ、庭に移植している。また、園芸種との混植も試みている。 ヘビイチゴとワイルドストロベリーの混植 ![]() ワイルドストロベリーとキャットミントとサラダバーネットへのドクダミ、タチツボスミレの混植 ![]() 金水引とウシハコベとタチツボスミレとオダマキとワイルドスロベリーの混植 ![]() アキチョウジとミツバとモミジとドクダミとワイルドストロベリーの混植 ![]() アキギリの株の植込み ![]() 混植してみると、もともと、この地域に帰化している野の花達は購入したものよりも寒さにも日照りにも強く逞しく、そして、園芸種に縁どられることにより、その花や葉の美しさが際立つように思う。そして、そことにより、私達の目はさらに私達の家の周りの自然の様子に向いていくように思う。 「風土的な」、もしくは「土着的なもの」を意味するものとして、ヴァナキュラーという言葉がある。哲学者、文明批評家であるイヴァン・イリイチは、無批判な経済という行為の全領域への浸透とその結果としての自然の営みからの人々の暮しの乖離、消費者化の進行と消費的生活システムである都市生活圏の無秩序な拡大、その結果としての人々の暮らしの質の劣化を指摘した。そして、社会の再構築のためには、経済活動を再度、ヴァナキュラーなものと再構築する必要があるとした。 知人と私は、この正しくも抽象的な論を、地域社会で共有し、暮らしの中で実感してくためには、ヴァナキュラーなものを、次世代にも伝わる、”目に見える具体的な形”で表現(デザイン)される必要があると議論し、それをヴァナキュラー・ベース・デザインという言葉で表した。 これまでの叙述からもわかるように、モリスやジーキルやロビンソンは、庭づくりにおいて、その土地の固有の植生というヴァナキュラーなものと共にある豊かさを、外来種との組み合わせや建物や風景を含めた空間デザイン等の技法を用いながら、目にみえる具体的な形で表現することに取り組んだ方達だと思う。 家族とともに向こうの谷に移住して6年目、長野にて森の花園に出会い庭をつくりはじめて3年目、土と植物の成長の理についてのこのようなことを発見し、このようなことを考え、このようなことを勉強し、このようなことを試みはじめている。 ▲
by mukouno-tani
| 2013-05-21 06:53
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