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拝啓 森の花畑の守人様
2017年7月19日の朝です。2年前の春に雑草地だった三帖ほどの面積に拓いた、北西の畑の入り口につくった小さな庭の宿根草達が次々と花をつけています。挿し木や播種して育てた苗を少しずつ植え、2ヶ月に1回程度雑草を刈り取り、株元に草マルチ置くことを2年間を繰り返せば、美しくボリュームのある花畑をつくれることが確認できました。この庭を構成する植物は、ルガモット・ディディマ、ベルガモット・フィスツローサ、フロックス、フェンネル、アスパラガス、樹木ではカイドウ、エゴノキ、小梅、アジザイ(元からある樹を剪定)、これに加えるべく、今年は、チョロギを育ててみています。どのような姿の、どのような花が咲くのでしょうか。 この度の雑草地からの宿根草主体の庭づくりをして発見したことは、当たり前のことなのかもしれませんが、中心に背の高い(50cm以上はある)植物を植えることと、その土地に合った(できればそこに前から生えている)樹をシンボルツリーにすることでしょうか。雑草に負けずに丈高く、シックに花を咲かせている赤や紫のベルガモット、白のフロックス、黄色のフェンネル、たぶん鳥が運んだ種から芽吹き、勢いよく育ち、今年の梅雨前に匂い立つ小さな白い花を沢山つけたエゴノキをみて、そう考えるようになりつつあります。 7月に入ってからは、苗づくりや庭づくりが滞っています。7月も半ばを過ぎ、苗づくりはひと段落という時期に入ってはいるのですが、苗場に通う回数は目に見えて落ち、手の入らない庭につる草や雑草が目立ち、折角育てた野菜の苗が定植できずに力を失っているに気づいて落ち込んだりしています。 思い返してみるに、予想をかなり上回って、仕事量が増え、独りの時間である朝の時間が2週間近く失われたことに主たる理由があるように思います。朝の独りの時間、この時に、本を読み、色々なことを考えたりまとめたりし、散歩をし、庭や畑に少し手を入れ、日記を書きます。そしてときおり、人生に対して、一年間の中で、自分のいまの位置が不確かになれば、昨日一日をどのように過ごしたか分析や整理をしてみます。 朝の独りの時間が失われると、このようなことが著しく滞ってしまうようです。 7月25日の今日の朝、昨日の朝仕事が影響し、少し頭が淀んでいるように感じています。 7月29日の今日の朝、ずいぶん頭がクリアになっています。それには2つの理由があります。 1つ目は、先週の土曜(7月24日)に、かみさんが私を北西の畑でのジャガイモ堀りに誘ってくれて、おかげでヤブガラシやヤマイモの弦に埋もれた畑や、畑の周りのスモモやプルーンやアーモンドやフロックスを発見し、しっかり手を入れられたことです。そして、そのことは、家にいても”頭”から”身体”と職場の仕事このとに占有されて、よく周囲を見れなくなり、次第に手を動かせなくなっている自分の状態に少し気づかせてくれました。かみさんに、感謝です。 開高健先生は『とにかく手と足を使いなさい』と述べられていて、なるほどと、心掛けてはいるのですが、自分の心や身体というのは中々思い通りにならないものですね。そして、人が心模様に(できるだけ静かにしていたいと思うのですが)、人と人の関係はいい意味でも悪い意味でも影響を与えてしまいますね。 2つ目は、7月26日に大幅に体調を崩し、3日間強制的に仕事と家事から離れることになったため、身体を休め、自分を取り巻く状態を冷静にみれる時間をもてたことです。当日の朝、疲れのせいか身体が重く、それでも点火しようと朝の日課をこなして、朝食を摂り、職場へ出勤しようと玄関を出た矢先、背中に異常な張りを感じ呼吸や歩行が難しくなり、急遽、調整可能な案件をキャンセルし、診察を受け、幸い筋を痛めただけだろうということで、痛みがある程度取れるまで安静となりました。 休んで分かったことは、”私が自分が本当に必要にされていること”と”そうでないこと”の境界線をかなり無視しして仕事をしていたこと、”そうでないこと”の多量が”本当に必要とされていること”へ掛ける時間を分散させ集中度を減じていること、いまのところ”本当に必要とされていること”に取り組む環境としてはオフィスはいい環境ではなく、むしろ”そうでないこと”を遂行するのに向いていること。というのは、この安静が必要とされる身体の状況でも3日間でここ10日間位常に頭の中にあった懸案事項をあっさりまとめることができ、”そうでないこと”はその案件に携わる他の方達が対応して成ったからです。ややこしいことを書きましたが、結論をいえば、24時間をいかに大切に生きるかという視点に立てば、私の現在のケースでは、”本当に必要とされていること”を遂行するのにオフィスはいい環境ではないということ、”そうではないこと”とオフィスはセットでありその”場”との距離の取り方が大切であること、”そうではないこと”とオフィスはコミュニケーションと情報収集と仕事に係る目線合わせの場面でもあり、ならばそう意味づけ、付き合うことが重要であるということ、”そうではないこと”への充てる時間の帯と時間の掛け方は上限をもたせるべきであるということ。そのことが、”本当に必要とされること”の質の向上を通し自分や家族の時間、そして”そうでないこと”へもいい影響を及ぼすのではないかということ。しれが安静の3日間の成果ではないかと考えています。 平川克美さんは、『株式会社という病』という本の中で、組織の中で働くことについてこう書かれています。 『人間はひとつのフレームワークの中にいるとき、そのフレームが作った言葉で思考し、そのフレームが作った価値観でものごとを判断するしている。そのとき、そのフレーム自体は見えていないのである。人間が組織の価値観に支配されるとは、こういうことだ。もしこの価値観を避けようとするならば、ひとは会社社会からスピンアウトする以外に方法がないように見える』 『家裁の人』(著者:毛利甚八)の中で、主人公である桑田さんは山の中の大きなクスノキの太い枝に腰掛け、いつも暮らし、仕事している町を眺めながら、青年に話します。 「このようにして、よく木の上に座って町をながめるのです。人は人を見つめすぎると 間違ってしまうから 見つめた人の いいも悪いも自分に伝染ってしまうから」 本当にそうだと思います。そして、隠遁者や仙人の様に、本当の意味でスピンアウトできないのであれば、日々の中に”スピンアウト”する技と時間をもつことがとても重要だということなのだと思います。 8月9日。8月1日から、再び仕事で1週間ほど、北海道に行って再び、生活と仕事のリズムが乱れたりしたのですが、徐々に、朝に独りの時間がとれるようになり、暮らしに戻って来ています。 8月17日。再び、お盆前後でイレギュラーな時間が続き、本日を迎えています。平常モードに戻り、独りの時間をもつなかで、冷静に考えれば、勿論、職場での組織の中で働くこともありますが、もう1つ、今年は6月半ばから8月初旬までの、庭づくり、苗づくり、畑の手入れがほぼ止まってしまったことには、子ども達(特に末っ娘)との約束で、これまで使っていた工作室を子ども部屋に改装していることも大きく影響しているのかもしれません(約束が10月半ばなのです)。ただ、そのことが理由があるだけではなく、もう1つ水面下に何かがあるような気がしています。それは私の中のことだけでなく、妻や子達の変化なのかもしれません。もう少し、それについて考えていてみようと思います。 子ども部屋づくりは、末娘のオーダーで設えている中二階の小部屋の土台部分の作成がようやく終わり、まだ仮設の足場ですが、早速、末娘に登ってもらい、うれしそうな顔をみて少しほっとしました。部屋をつくっていると本当にこう思います。「目に見える成果」を出すためには、その水面下で「目に見えない部分」をつくる沢山の作業が必要なのだと。 朝、メイ・サートンの『70歳の日記』を読み返してして、心にとまる文章がありました。とりとめがないのかもしれませんが、そのことを書き抜いて、今回は終わりにしたいと思います。 「私はつねづね、人間はもうすぐ死ぬつもりで—もうちろん誰もが死ぬのだけれどー生きるべきだと考えてきた。そうすればおのずと何を優先すべきかは明らかになる。」(P48) また、書いていきます。
by mukouno-tani
| 2017-07-19 07:03
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