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拝啓 森の花畑の守人様
2017年6月17日の朝です。3年目にして、妻に贈った、クレマチス・グラビティ・ビューティーが花をつけました。向こうの谷の庭の半野生の植物達の中にあって、クレマチスの茎や葉や花は華奢で、儚げで、圧倒されてしまったと思い込んでいた春先、これまでになく力強い弦を数本伸ばし、数輪の見事な花をつけたのです。いつも、植物は決してあきらめることなく、根気強く、地面の下に力を蓄え、地上の条件が整い方を見計らって、地上に芽を出そうとします。それは成功したり失敗したりするのですが、いつも、そのことに、こころ静かにさせられます。 向こうの谷の植物達も初夏の様子に変わりました。野菜や花達は発芽期から旺盛な生長期に移り、春の花は実や種となり、夏の花があちこち蕾を膨らませたり、ほころび始めたりしています。 そして、6月から7月の初旬は挿し木による苗づくりと、春に播種して芽吹いた小苗の一回り大きいポットへの移植の季節です(今年、ようやくその時期だと自覚したのですが)。時間の合間を縫って、1日5本株、10本と草花の若い茎を切り取り、挿し木用に調合した用土に茎を挿します。また、ときおり小苗の移植を行います。そして、苗場の寒冷紗の下にもっていきます。今年の秋までの苗づくりの目標は、挿し木や播種を含め1000ポットです。 春に播種した小苗で楽しみなのは、まずレモン・ベルガモットやベルガモット・プンクタータといった1年生のベルガモット、アシタバ、フェンネル、オオバギボウシ、オミナエシでしょうか。花の種は野菜の種より小さく、発芽に時間がかかり、乾燥にも敏感なものが多く、フェンネル以外は、発芽率も30%前後と悪く、まだまだ培養土の調合方法や播種の時期や、好光性・嫌光性、設置場所、水やりの方法、種の自家採取の方法などの研究が必要です(写真は上:レモン・ベルガモット、ベルガモット・プンクタータ、下:アシタバ)。 3年前から挿し木による苗づくりをやるようになって庭づくりの速度が飛躍的に早くなりました。その理由の1つは前にも書きましたが、苗を買う費用を気にせず思い切り苗の植栽ができることです。そして、このことを改めて考えていて、もう1つの理由を発見しました。それは、苗を買うために係る時間を節約できることです(手に入れたい植物を販売している店を検索したり、商品や郵送代の安い店を探したり、商品の一括購入で郵送料の節約を工夫しようとしたり、購入の手続をしたりすることにかかる時間)。これは全く苗に限らないことですが、思い返せば、1回の「買う」ことに費やす時間はインターネット購入で1~2時間、買いに行っても同程度の時間がかかるでしょう。1時間は、挿し木のポット30個をつくることのできる時間でもあります。その後の水やりを含めても2時間に収まるでしょう。 「買う」という行為は、本来、『生産力を上げたり、必要なものを安定して利用できるようにしたり、利用できる種類を増やしたりするために、育てる~加工する~利用することを多人数で手分けした結果、生まれたもの』だと思うのですが、どんな場合でも「買う」>「自分でつくる」という訳ではなく、その状況に応じて選択するものなのでしょう。しかし、これだけ「買う」ことが日常生活に充満すると、まず「買う」からはじめてしまう癖がつくのですね。だからこそ、自分や家族の中で、”買うこと”と、”自分で育てて(作って)利用する”ことを、比べて選択できる日常があることも大切なことだと、改めて思うのです。 買うということを含め経済的な行為というものは、想像以上に、人の行動や感情や時間や人生にも大きく影響するようです。このところ、平川克美さんの「株式会社という病」を読んでいますが、この本は人と経済的行為の関係性について、もやもやと感じていることに輪郭を与えてくれます。共感していることを整理するため、いくつかの気になる文章を書き抜いてみます。 ・人は誰でもお金が好きではあるが、お金のためだけに生きているわけではない。お金のために一所懸命に働くことと、お金のためだけに働くこととはまったく別なことである。前者は、お金は本来の目的と交換するための媒介物であるが、後者はお金そのものが目的なのである。…ふたつの立場の境界はお金のちからが強くなればなるほど曖昧になり、実際のために人間はお金のために生きよ、と告げているようにみえる(PP43-44) ・…エクスチェンジ・アレイでの株式取引の騒ぎに業を煮やした英国議会は、一七二〇年には、株式会社を不法として禁じたとある。株式会社が生まれた頃の一般的な会社形態は、共同経営事業(パートナーシップ)で、創業者たちが元手を出し合って会社を所有すると同時に経営もするというスタイルであった。日本における零細・中小企業の多くは、このごろの共同事業経営とはほとんど同じだろう。株式会社というものと、それまでの共同経営事業経営との際立った違いは、会社の所有と経営の分業というところにある。…そしてまさに、所有と経営の分離こそが、当時の英国において、堕落と醜聞の温床となると懸念されていたわけである。所有者は出資者に関して責任を持つが、会社が何をして、どのように事業を運営するかということには興味がない。雇われ経営者は、株主の顔色をうかがうことに熱心で、事業に対して本来持つべき責任感は希薄になる(PP66-67)。 ・ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの教授、ジョン・ケイの最近の著作によれば、アダム・スミスの最も偉大な洞察は「神の見えざる手」を発見したということ以上に、分業の効果と限界について分析を行ったことであるという。… 『精神が麻痺してしまうため、理性的な会話を味わったり、その仲間に加わったりすることができなくなるばかりか、寛大で高尚な、あるいはやさしい感情をなに一つ抱くことができなくなる。』(PP68-69) ・人間は自らが帰属する会社というものに対して影響力を行使することができるが、同時にその会社によって影響を受けている。もし、株式会社というシステムが、その内に病を抱え込んでいるとするならば、それは人間の病でもあるわけである。そして、どちらの病も、その効果によって、つまりは生産活動の効果としての利益の享受や、生活の利便性の向上によって、隠蔽されている。もし、私たちが病の自覚というものを失ったとすれば、それは病それ自体が癒えたのでも、消失したのでもなく、私たち全体が病に冒されて、病のちからによって支配されてしまったということなのかもしれない。病を内に抱え込んでいることそれ自体は、会社にてっても自然なことでり、必要なことでもある。私はそう考えている。しかし、病を持っていることと、それに無自覚であるということはまったく別の文脈で考えるべきだろう(P72)。 ・もしも、所有と経営の分離という原則に沿って、経営者が経営合理的に行動するならば、この経営者の愛情は無償であってはならないはずである。しかし、経営者が、従業員を雇い入れ、チームを作り、共同作業を行い、商品を創造していくというプロセスの中で、そこには換金できない贈与が、経営者からも、従業員からも会社に対して必ず行われている。…経営と所有の分離という原則から言えば、こういったことは経営者が負うべき責任からは除外されるべきものである。しかし、それでも会社というものは実際には、こうした無償の贈与が共同体の成立プロセスの中で、必然的に行われることになるのである。経営は、この無償の贈与によって、単なる利益創造のための雇われ人から、共同体の中心、幻想を統合する社長になるのである(PP152-153)。 ・同じことは、従業員に関してもいえるだろう。労働と報酬の等価交換、自己決定、自己実現といったスキームだけで従業員が行動した場合には、そこにロイヤリティといったものは入り込む余地はない。ロイヤリティのないところには、組織としての団結力も生まれなければ、団結力がなければ生み出されない組織的な力も発揮できない。集団を組織し、その組織が維持され、組織がひとつの全体として力を発揮できないためにはどの幻想の統合軸が必要なのである(P153)。 ・…あえて言えばそれは共同体のエートス(=倫理)といったものであるといえるのではないか。経営者も、労働者もただ自らの仕事に情熱を注ぐということで、自分では予期していなかった倫理創造を結果として行うことになる。そして、同時にその結果がまた、共同体のエートスを強固にする。今風にそれをブランドといったもいいかもしれない。しかし、ここでいうエートスとは、もっと根底的な組織体の幻想軸のことである。共同体のエートスは、世間一般が暗黙の了解として共有しちえる倫理とは異なっている。そこでは、善悪の価値観よりも、どれだけ強くその共同体と結びついているかというロイヤリティの強度が優先される(PP155-156)。 ・昨今の雪印乳業、不二家、三菱自動車工業といった会社が信用を失った理由は、ブランドイメージが落ちたからではないだろう。それ以前に、経営者たちが会社を育てて行くという「親の情熱」を失って、短期の利益確保といったような等価交換のスキームに陥り、それを肌で感じた「現場」のモチベーションが落ち込み、現場の人間もまたその会社で働くことの誇りを失い、会社の方針と争うよりは、波風を立てずに時間を稼ぐといった諦めに近い精神になっていたのではないだろうか。そしてこれもまた一つの共同体の姿であるともいえるだろう。共同体はそれがもつ呪縛力によって拡大し、同時にその呪縛によって腐敗してゆくものだからである(P156)。 ・会社において、本来、個々に利益が相反する複数の人間が一つの利益共同体として機能するためには、どうしても個々の価値観をいったん括弧に入れる必要があるのである。したがって、会社の価値観とはあくまでも会社という共同体を存続させるための、限定された価値観だということになる。そうであるにもかかわらず、それがあたかも社会全体の価値観であり、自分の価値観でもあるかのようになってしまう。ひとはなぜ、自分のものではない、組織限定的な価値観によって支配されてしまうのか。それには理由がある。(P120) ・ひとは、自分がひとりで作った規則は、容易に、破ることができる。禁煙だろうが、禁酒だろうが、断酒どろうが、何度でもそれを破ることができる。それは、他人がつくった規則に関しても同じである。ところが、共同体で作った習慣や規則は、簡単に破ることができない。それは単なる規則違反であるに留まらす、その言葉の真の意味でも(つまりは宗教的な意味での)共同体への「背信」であるからである。(PP120-121) ・人間はひとつのフレームワークの中にいるとき、そのフレームが作った言葉で思考し、そのフレームが作った価値観でものごとを判断している。そのとき、そのフレーム自体は見えていないのである。人間が組織の価値観に支配されるとは、こういうことだ。もしこの価値観を避けようとするならば、ひとは会社社会からスピンアウトする以外に方法がないように見える。 「買う」ということが日常生活に充満し、「自分で作る」というもう一つの軸を忘れさせるということが、環境問題や福島の原p津問題をも引き起こす「所有」と「経営」の分離という体質を持つ会社から生み出される商品・サービスを買いたいという衝動により強化され、また同時に欲しいものを手に入れるための会社で働く時間の拡大が「自分で作る」ための時間を少なくしているとすれば、経済だけを問題視しても解はでなないでしょう。”所有と経営という会社の構造”と”共同体の構成員であるときの人という集団で暮らす生物の性の関係性”を理解しし、”その構図と付き合うための、あるときは敢て”孤独”であることも辞さない「私」や「家族」の働き方や暮らし方や家族の時間の持ち方を改めて確立すること”が重要なのだと考えるのです。 今回は、ここまで進められたのでよしとしたいと思います。 そして、このことは、かつて挑戦し、行き詰っていた、「行政組織はなぜ自己の組織運営や事業・施策について自ら改善を行うことができにくいのか」というテーマにも、再び進めていくための手がかりを与えてくれています。 今日は、7月17日、書き始めてから、また1月も経ってしまいました。次々と予期しなかった対処しなければならない仕事が入り、この2週間ほど書くことが滞ってしまったことが効いています。もう一度、”昨日何をしていたか”を振り返り、1日の時間の使い方を再確認する必要がありそうです。たとえ、その時、充実すら感じていたとしても、巻き込まれて忙しい時は”時間が早く流れる注意すべきタイミング”なのです。 南の畑ではベルガモットが満開になりました。2011年に長野で頂き、持ち帰ったベルガモットはいま、3つの家の庭で見事な群落に育っています。花々は、人の思惑は関係なく、天候と関わる人の手の正しい接し方のみによって咲きます。人の手とは、思いに裏打ちされた人の振る舞いであり、花々はその思いを歪めずに伝えていくのだと、そして、そこに庭の意味もあるのかもしれないと、そう感じています。
by mukouno-tani
| 2017-06-17 07:11
| 野研ノート(社会)
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