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2011年1月第3週週末。
先週少し落ち着いていた雪が、昨夕から再び猛烈に降り出した。 除雪車が家の前の道路をかいて下さった後、車を駐車場から出してみると一晩で40cmは積もった様だ。 再び吹雪きはじめたので家に入る。玄関からみた外の風景。 田舎で暮らし、自然を利用して暮らしていく上でとても大切なことに思えてきた、草やハーブのコンパニオンプランツ、肥料、薬草としての効能を勉強してみようと、幾つか本をめくっていると、有吉佐和子氏の「複合汚染」のあちこに”ハコベ”についての記述がある。 うちの畑ではハコベは春や初冬の畑の一面に茂る。繁殖力が強いうえ、抜いて畑の脇においておくとそのうちそこに根を下ろし再生するので、やっかいな雑草だと思っていたのだが。。 「草はよっぽど背の高い草や、根の強い草の他は、野菜の邪魔はしませんで。ハコベは、とらん方がええと思います。」(除草剤、農薬等を14年間使っていない農家へのインタビュー、p225) 「ここは無耕転でやっているんです。この土地は一度もたがやしたことがないんです。どうも人参とハコベは仲良しらしいです」(無耕転栽培に取り組む農家へのインタビュー、p292) 「アンジェに近い農村(フランス)で、私は共栄植物方式を実践している篤農家の畠をみせてもらった。人参畠には、びっしりとハコベが生いしげっていた。・・・畠の雑草が、日本のものと全く同種の草であることを確認してから、私は通訳のフランス人に、この草はなぜとらないかと尋ねた。彼は英語で、 『人参とその草はフレンドシップ(有効関係)を持っている』と答えた。」(p490) これらのことが事実であるなら、野菜の生長を邪魔する雑草と思っていたハコベは七草粥の草の1つであるだけでなく(これすら食べたことがないが)、野菜の生長を助ける植物(コンパニオンプランツ)であるということになる。さらに薬効など諸々調べてみる。 <植物として> ハコベ(繁縷、蘩蔞)。ナデシコ科ハコベ属(Stellaria)の総称。越年草(寒冷地では1年草)で山野や路傍に自生。「あさしらげ」「はこべら」「ひよこぐさ」とも呼ばれる。ハコベ属には、コハコベ、ミドリハコベ、ウシハコベなどがあり、一般的にハコベというと、コハコベのことをいうことが多い。 人参と大根と相性がいい(コンパニオンプランツ)とある。 <薬効> 炎症を緩和する作用があるとされ、湿疹や歯槽膿漏、歯痛などに効くといわれる。歯槽膿漏には食塩にハコベの葉の粉末を混ぜてブラッシングするとよといわれ、歯痛にはハコベを塩もみして丸め、葉の間に挟んで噛む。生の葉に塩を加えてすり潰した汁を飲むと慢性胃炎に効果があるといわれる。(薬食療法百科) <栄養と七草粥以外の食べ方> コハコベ、ウシハコベが食べることが可能で、全草にフラボノイドを含有していて、たんぱく質も多い。 柔らかそうな先っぽの方をつみ、塩水で湯がいて水に少しさらし、和えもの、汁の実、天ぷら、炒めものにする。泥臭さが気になる場合は、ナムルや胡麻和えもいいそうである。 それにしても、これだけ可能性のある植物を、私達(特に私)は、「こいつめっ、こいつめっ」っと撲滅させる勢いで引き抜いて、黒土と野菜だけになった畝をみて、やっと人並みの畑になったとうっとりしていた訳であるが、もしかしたら、今の畑に草が生えていることに対する罪悪感や畑に対する美しいと思う感覚は昔はもっと違ったものであったのかもしれないと思う。 併せて、いまでも倹約家で合理的で、何より実質を尊び、山の萱や笹まで利用しつくしていたお百姓さんが、小さな畑でもこの植物をきれいにとってしまっていることも腑に落ちない。そう思っていたら、有吉佐和子氏は「複合汚染」の中で30年前にすでに問題提起していた。 「日本の農家では必要以上に草をとっているのではないか。百姓だけに農業をまかせていたら、彼らは畦道に大豆をまき、大豆の根瘤バクテリアで土が豊かになることや、稲と大豆が仲良しであることに自然と気がついたようなことが多かった筈だ。農作物と相性のいい草や悪い草も見わけることができた筈だったと思う。」(p495-496) 「日本には幕末よりさかのぼった農業技術史というものがないも同然で、除草について詳しいことは分からないんですけれど、万葉集に田の草取りが唄われていますから、もちろん草取りはしたんでしょうが、フランス人が呆れ返るような一本残さず取りつくしてしまうような草取りをするようになったのは、どうも私の考えることころでは江戸中期ではないかと思うんですがね」(p495) 「他の分野で見て、日本人の潔癖性というものがむやみと強調されるのが元禄時代なんですよ、茶の湯が茶道になり、剣術が剣道と呼び名がかわって、実用から離れ、精神主義が叫ばれ出すのは、美術史を見ても、江戸中期なんです。徳川の幕藩体制が儒教中心でかためられていくのと同時です。だって戦国時代の百姓が、田畑に一本の草もないほど丁寧に手入れしていたとは考えられないです。」(p495) 「・・・江戸時代を通じて農政の担当官は武家であり、彼らは今の農林省と同じように「土」を見ず、ただただ主家のために収量本位で農民を追いたてまくった。米だけしか見ない彼らに、草は無駄なものとしか考えられなかっただろ。」(p496) 「一本の草のないのが篤農とされ、草がはえていれば怠惰のしるしと見做されていた江戸時代が終わって、百年すぎても、・・・まだ草を取ることに対して義務感が強すぎる。その結果が、開発された除草剤の(世界でも類をみない)甚だしい消費量に現れている。」(p496) 日本はフランスより、はるかに植勢が強い。瀬戸内か日本海側か、東か西かでずいぶん差はあると思うが、それでも雑草の勢いは日本の方が遥かに強いと思う。また、田と畑では作り方も草との関係も異なる。しかし、実質上、江戸期に米や野菜を換金できる商品としてみる傾向が強くなり、それがかつての行政である藩から強制されれは、その様なことも考えられるように思う。 ”江戸時代中期から農業の様子が変わった”ということは別の分野の方も述べている。 農業水利学者の玉城哲氏は「水紀行」でこう述べている。 「新田開発のやりすぎによってひきおこされた水資源の希少化は、「水論(水争い)」の多発となってあらわれた。・・・元禄・享保期が、このような論争の最初の多発時代であったようにみうけられる。この時期は、新田開発がクライマックスに達した時代でもあった。」(p23) 「・・・10世紀から15世紀にいたる荘園時代の田畑面積の平均は、おおむね105万町歩、1559年の太閤検地では206万町歩、・・・さらに幕藩時代の享保期には297万町歩にたっしたという推定がある。」(p20) 「石高制」経済は、大名達の「米」への強迫観念を生み出した。領主経済を強化し、武力を維持するには、まず何よりも米を百姓から徴収しなければならなかった。」(P21) 江戸時代中期は、行政が積極的に農業に(農法にというべきか)大きく干渉しだした時代だったらしい。 行政の農業(農法)への干渉については、宮本常一氏が「村の崩壊」の中で、第二次世界大戦後、更に進行した行政の干渉とその影響について記録している。 「私の親しくしている篤農家たちは「いまにきっと機械化時代が来る。そのときそのことを怠っている農村はかならず行き詰まる。米価の補償をやめて、その金を設備投資にまわすようにしなければならない。しかし、農協が反対している。農協が農民の団体でなくなり、米の供出機関になったことに問題がある」と話しあっていた。」(p231) 「戦後きわめて意気さかんであった農民たちのうち、篤農家といわれる人びとの発言が目に見えて弱くなって来たのは、昭和27、8年後からであるが、それにかわって大学の先生や官僚たちの農村指導が目立ってくる。その人たちは、日本の経済状態、農業の占める経済的位置、農業の見通し、かしこい農業と称して農業経営の合理化を説いた。しかし農民たちは次第に覇気を失っていき・・・指導者たちの指向とは反対の兼業農家がふえていった。」(p236) 「一番大きな原因は、農村におけるいろいろの組織が官僚化していったことではなかっただろうか。官僚組織では責任は個人が負うものでなく、組織が負う。だからこそその地位にあるあいだは努力していても、地位を去るとその人に期待することはできなくなる。2年か3年その地位にあるあいだは努力していても、地位を去るとその人に期待することができなくなる。そのための指導がきれぎれになってゆく。・・・これを受ける方の側の農民はいつまでも同じところに、同じように暮らしている。」(p236) 「昭和23年に農業改良助長法が公布させられ、農業改良普及員がおかれた。農業技術の指導はその方が力が強くなりつつあった。そしてパラチオンやビニールはこの普及員たちの力によって広がっていった場合が多かった。」(p232) 明治期~戦前のことは抜けているが、このようにみてみると、江戸時代中期以降、行政の農業(農法)への干渉は少しずつ大きくなり、お百姓さんの本来の観察力や創造力を押さえ込み、ハコベをはじめ様々な畑や田の植物は役に立たない雑草となり徹底的に引き抜かれる農業文化が定着し、更にはお金を払って除草剤で枯らされるようになったのではないか。 ハコベを調べてまとめるうちに、随分、話が大きくなってきたのでここで止めておくことにする。 あとは、春からハコベと付き合きあいながら、確認していこう。
by mukouno-tani
| 2011-01-16 12:33
| 畑と山と食と循環
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