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2003年 島根と広島の県境にある農山村地域での暮らしは職場付設のアパートで始まった。
後で考えるとここからスタートできたことは色んな意味で幸運だったが、初めてのことばかりで最初は緊張の連続だった。職場でも同じ建物にいる人達が帰ってもすぐ近くに暮らしている環境は初めてだったし、地域の人達がほとんど顔見知りで、同世代になると親も子どもも幼馴染に近い環境というのも初めてだった。 大阪では家の外で知り合いに会う等ということはめったにないし、さらに私の場合、個人の業務は個人がマネジメントする会社にいたせいか、職場組織内の親睦を深めるためにレクリエーションまでするという経験を持たなかった。会社とプライベートは殆ど交わらない別個のものであった。その様な世界から、このいきなり公私混じり合う濃密な世界飛び込んだのだから相当なカルチャーショックがあった。最初は、職場から帰ってきてもどこかリラックスできななかったし、お互い顔見知りばかりの地域の人間関係にもどう入って行ったらよいかわからなかった。 最初の年のことをかみさんと話していてなるほどと思ったのだが、車が唯一の移動手段である生活もはじめてだった。 大阪では車を持たず徒歩と自転車と電車とバスの生活だったので、引っ越ししてしばらくは私自身曲がりくねった道をまるで高速道路の様に走る車群に併せて走るのに相当緊張していた。 車は、引っ越し前に中古の三菱のRVRを購入したのだが、結局手続きが間に合わず、当日の家族の移動は引っ越しはレンタカーだった。当初台数も1台だったが、3か月後には2台目の4WDの軽自動車を購入した。アパートから徒歩で20分圏内に農協のスーパーとスーパーがもう一軒、役場、郵便局、銀行、保育所等はあるので、大阪でそうであった様に、かみさんは自転車の前後に子どもを乗せて移動してみたが、どうしても通らなければならない国道がまるで自動車専用道路の様で危険であったこと、子どもの病院に連れて行くときは車が必要なこと、冬は道路が凍結してとても自転車で行き来できないこと等が理由であった。 当初、かみさんが自転車で買物に行くと、行きかう人に驚いた様な目線を受けたらしい。 1年目の秋頃まではひたすら、仕事にもこの地域の暮らしにも慣れるのに殆どのエネルギーを使っていたと思う。週末になると三次市や出雲市に買物に行くか、車で日帰りできる山の中に探検に行っていたのを思い出す。かみさんの記憶によると、春は山菜を求めて直売所巡りをし、もうフキノトウが販売されていなか確認の電話していたそうだ。そして、ダムの近くにフキノトウが生えていると聞き車で採りに行ったことを思い出した。 このようなこれ以外のことを、特に夏や秋にやったという記憶がない。それが、1年目の私達の精一杯の冒険だったということなのだろう。 いま考えても、更に私達家族にとって幸運だったのは、私達と同じ年に、職場付設のアパートに引っ越してきた同じ位の年齢の子どもを育てるご家族が4組もあったことだ。皆さん、それまでは松江市・出雲市等の街部に暮らされていた方達で田舎に暮らすのは私達同様はじめてで、子どもさんが小さいこともあり共働きではなかった。 アパートの前には砂場があり、一組の親子がアパートの外で遊んでいると、次々と他の家族がでてきて、子ども達は一緒に遊ぶようになり、お母さん達も言葉を交わす。この地域では都会の公園の様に小さい子どもさん達とおかあさん達が集まる場所があまりなかったのかもしれない。アパートの住人以外のお母さんと子どもさんも来られていたらしい。 特にお隣さんは一番上の子が同じ年であり、また最初の年は子どもを保育所に預けず育てていたから、子ども達がともて仲良しになり、家族ぐるみでお付き合いさせて頂いた。お付き合いする中で島根で暮らすために必要な知識や私が仕事をする組織社会の勘所みたいなことも教えて頂いた。本当にお世話になった。 私は仕事の人間関係の中でのほほんとしていたが、かみさんはどうだったのだろうか。 聞いてみると、3歳と7ヶ月の子どもが常に一緒にいるので、殆ど身動きできなかったらしいが、それでも積極的に子育てサークルに参加したり、保育所開放日に子どもを連れて行ったりしていた様である。これも、タイミングがよかったそうで、町が子育て支援の一環として子育てサークルに力を入れ始め、また保育所も子どもさんを預けている世帯以外の子育て世帯への支援に力を入れていた時期だったらしい(現在は、その頃の町が隣町と合併して方針が随分変わっている)。それにしても、女性達の子どものことを何をさておいても考えながら、自然体でこつこつ繋がりをつくるその自然な堅実さと持続性はなんなのだろうか。つくれらた繋がりはは保育所、学校、病院、買物、祭はじめ、地域で暮らすためにはそれがなくてはスムーズにいかないほど重要な役割を果たしているし、考えてみると、この町での私達家族の人間関係はほとんどかみさんの人間関係に基づいていると思う。穏やかなのにパワフルである。 車も持たず都会のアパートに暮らしていた私達家族が、島根に来て1年目に、仮に、いまの向こうの谷の家で生活をスタートしていたら、今の様に暮らしているか? 答えは否であると思う。きっと、やることは多く、できないこと、気づけないことが多すぎて、田舎の一件家の暮らしに疲れ果てていたと思う。 私達家族の場合は、アパート生活から1年目をはじめられたことは、地域を知る上でも、生活に慣れる上でも、繋がりをつくるうえでも、田舎暮らしをはじめるためのいい準備期間となった。とても幸運なことであった。 <続く>
by mukouno-tani
| 2010-08-14 18:51
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