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2010年6月。夕方、かみさんから電話がかかってきた。
知らない女性が、この家どうやって借りたのか繰り返し聞いてこられたらしく不安になったらしい。仕事から帰って早速様子を聞いてみた。廃品を回収することを業とされており、時折、向うの谷を周られるらしくよく谷の様子をご存知で、かつ、田舎に暮らすことに興味を持っておられる方の様だ。 3年間、家や畑に少しずつ手を入れてきた成果なら嬉しいが、多分、町部の方の”田舎暮らし”への関心が高くなっているのが理由だと思う。 仕事柄、この様な、田舎の家を借りて暮らしたいという町部の方、ご自分で少しずつ家に手を入れていきたいという方等とお話する機会が多い。流れで、向こうの谷の暮らしのことにも話が及ぶときがあり、家探しや大工作業や私達家族のいきさつや、家を直す間の家族や私の様子など聞かれるが、いつもその時に思い出した記憶まかせで、できちんと説明できていない。そういえばこの3年間の私達家族一大プロジェクトなのに、きちんと記録をとっていない。 そこで、これからポツリポツリと、この家に住みはじめるまでのプロセスについてメモをつくってみようと思う。 なお、一応公開するメモなので付記しておくと、私達の家や畑に手を入れながらの向こうの谷での暮らしは、色んな方にお世話になりかつ迷惑をかけながらであるが、基本的には自己(家族ともども)責任で行っている。危険なことが沢山あるので細心の注意は払っているが、それでも一つ間違えばということもあった。もし拙稿をご覧になる好奇心のかなり強い方がいて、なんらか情報を得られたとしても、あくまで自己責任のもとで、おこなってもらいたい。 8年前、私達は大阪から広島と島根の県境に接するこの町に引っ越してきた。最初は職場に付設のアパートに入居した。いま、考えれば、これは、とても幸運なことだったと思う。 私は青年期までを熊本県熊本市の市街地で、田舎にほとんど触れることなく過ごした。 大学時代は、縁あり農学部に属し、調査や実習という形でわずかながらも農業や農村に接点を持ったが、その後、大阪市の会社に就職した。会社は自治体の調査や計画づくりをサポートするコンサルタントで保健医療や福祉を主な分野としていたが、そこでも縁があり、私が入った頃から都市農業や農村部の地域振興に関わる仕事が入り、様々な分野の仕事をする中で、農業・農村に係る業務をかなり自由度を持ってさせてもらっていた。 大阪市はいまでも好きな都会である。大阪に行って4年目にかみさんと家族になり、住んでいたのは大阪市の我孫子という下町で、街といえども人と人の関わりがあった。八百屋さんに行けば顔を覚えててくれて声をかけて頂いていたし、同じアパートの方と挨拶やちょっとした会話も交わしていた。赤ん坊だった長男をベビーカーに乗せて歩いていると、子どもをみて、おばさんが気軽に声をかけてくれた。 しかし、私も妻もどこか都会の暮らしの場としての環境に息苦しさを感じていた。そして、親になって2年目、どこか、ここで子どもを育てていいのだろうかという不安の感もあった。 かみさんの実家は富山県の富山市に隣接する町で、まだ田舎の風景が色濃く残る地域にある。家の前は一面田んぼで、春は田に水が張られると湖面に家々がポツリポツリと浮島の様にあり、その風景の後ろに立山連峰という風景になる。家の裏庭には滾々と湧く井戸がある。この家を訪れると、体が全身で都会で不足する何かを懸命に吸収している様な気がしていた。そして、富山から帰り、大阪駅に降り立つと、むうっとする空気が大変残念だった。 そして、かみさんのおなかに次男坊がいる頃からだったと思う。より田舎に近い所の物件を探したり、奈良のほうの農家民宿に泊まりに行ったり、市民農園を借りようか相談したりしていた。 次男坊が生まれて半年位たった頃だったか。これも縁あり、島根のいまの職場に職を得るチャンスを得た。 会社で経験を積ませて頂き中堅になり、スタッフも世代交代しようとしていた時期でもありかなり逡巡していたが、片や、より現場の中で仕事をしてみたいという思いもあった。最後に、島根へと私の背中を押したものは何だったのだろうか。 そして、8年前、家族で島根に引っ越してきた。長男坊が3歳、次男坊が7ヶ月位だったと思う。職場の方が、積雪の多い所だから車は4駆が必須であること、その他、電気・水道・新聞・買物・病院・CATV・インターネット接続の手続きまで全てメモにまとめて教えておいて下さり、それに従って準備を進め、何も考えずに職場が用意して下さった職員宿舎に入った。 これも幸運だった。その時点で私達は”予め気候条件を調べて車種を選ぶ”ことすら知らなかったから。 島根での1年目の春が始まった。<続く>
by mukouno-tani
| 2010-08-11 22:54
| 野研ノート(ライフヒストリー)
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