カテゴリ
全体 家と庭 畑と山と食と循環 子育ちと環境 向こうの谷 野研ノート(家族) 野研ノート(地域) 野研ノート(デザイン) 野研ノート(社会) 野外体験産業研究会(活動) 野研ノート(ライフヒストリー) フィールドノート 生きる 働く 森の道を歩きながら 暮らしと時間 鍛錬と育ち 未分類 最新の記事
以前の記事
2021年 06月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2018年 02月 2017年 12月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 04月 2015年 12月 2015年 09月 2015年 07月 2015年 03月 2015年 01月 2014年 09月 2014年 06月 2014年 04月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 05月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 タグ
フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
これからの時代は、これから自分と大切な人達がどう舵を切っていくか、”先のことを予測しながら生きる”ことが、これまでより重要な時代に本格的に入ってしまったのだなと思う。
これまでも、”先のことを考えて”というセンテンスはよく使われてきたが(私も家で、学校で、職場で、周りの先達達に同じことを時折言われてもきたが)、それは、「これまでの社会状況がこれまでも続く」ということを前提とした発言であり、むしろ、これからの時代、このセンテンスがそれと同じく従来の意味で使われるのあれば、むしろ、受け取る側にとっては、たくさんの罠が潜んでいると考えた方がいいと考えている。例えば、 『いまのうちからしっかり勉強していい成績とっておかないと、いい大学に行けず、いい就職できないよ。将来のことちゃんと考えている?』 『毎月家賃払っているなら、一層のこと同じ月払いの額でローンを組んで家買ったらいいじゃない。資産にもなるし。将来のことしっかり考えいる?』 そもそも、やってみると自分が楽しいこととは何か?働くって勤め人になることなのか?いい大学って何か、そこに行って知りたいことは何か? なぜか、そのようなことはさておき、はやければ小学生から勉強する(テストでいい点をとる)ことに身体と頭の大部分を使わざるを得ない環境に置かれてしまう。 家を買って、家賃と同じ額のローンを毎月払うようになったが、これから20年、いまと同じ水準の収入を得ることが決定し、その時点から20年間の働く時間や働き方がおおよそ決まってしまう(将来20年分の時間の使い方や働き方を前借してしまう)。 そう。これまでの、”将来のことを考えて”という言葉は、どちらかと言えば、このように作用することが多いのではないか。大切な人が自分で大切な選択を行うその時のために視野を広げようとすることに傍らでちょっとおせっかいすることと、(自覚しているかしていないかは別として)無責任に影響力をもっておせっかいすることの境に明確に線引きすることは難しいが、だからこそいつも意識し、考え続けておくことこそ必要だと思う。 傍らで、この様なことを思いながら、仕事柄、色々なデータに触れることが多く、どうも僕らの子ども達が生きる時代は、これからの時代は40代である僕らの時代より非常に変化の大きい期間になるように思えて仕方がないので、これまでと異なる社会状況になる前提で、あえて”先のことを考える”ことをしてみた。自分達親の歳と子ども達の歳と、私が仕事柄接点の多いデータである、いま暮らしている地域や町や島根県の人口の将来予測や、もしかしたら子ども達が将来職を持つことを考えるかもしれない東京都、広島市、松江市等の都市部の人口の将来予測を重ね合わせてみた。 ここに挙げている私達が暮らす山間の町、島根県の田舎(中山間地域)については、いずれもかなり希望的観測に基づくものである。10年後には地域に入ってくる若者が地域から出ていく若者の数と均衡するぐらい都市部から田舎に若い人が移り住んできて、かつ、女性が一生涯に産む子どもの数(合計特殊出生率)が現状の2.0(一生涯に2人の子どもを産む)を下回る水準から2.0を上回るようになる仮定の上での数字である。なお、日本の将来人口推計については合計特殊出生率は現状を上回るという予測の上での数、対して、都市部の数字は現状のまま推移すれる前提の数字である。これは、元々、田舎は都市部と比較して合計特殊出生率が高く、人口規模も小さいので都市部から若い人が移住してくれば人口減や高齢化を緩和できる目もあるが、都市部では今以上に出生率を上昇させ、かつ地方(これから人口が減る)からの転入を維持することもかなり難しいと考えるからである。 まず、田舎(向こうの谷のある町も含め)では、仮に、いま以上に出生率が上がり、都市部からの転入があるという希望的観測に基づいても、2040年(高校1年生、中学2年生、少学4年生である向こうの谷の子ども達が30歳になる頃)には、人口は多くてもいま(2015年)の4分の3であり、もしかしたら半分位になるかもしれない。高齢化率はというと、すでにピークにきているので、仮に出生率や転入増がなくてもこれから極端に上昇することはなさそうである。 そうすると、将来、私達家族がこの町に暮らし続けるとすれば、将来、子ども達は大人になり家庭を持つようになり、私と妻は年をとり高齢者になるこの20年間で、地域でも学校でも職場でも人が減り、色々な業種でもお客さんがどんどん減っていく状況を経験する可能性が高い。 (なお、私は人口が減ること自体、悪いことだとは思っていない。明治期以降、日本の人口は異常なくらい増えており、例えば、何らかの要因で食料や燃料の輸入が止まれば、すぐさま日々の家族の食事や暖をとるのに困り果てる状況と背中合わせの状況にあるからである。たとえ人口減少期に一時的に沢山の高齢者を社会が抱える困難期があるとしても、今より少ない人口規模に移行する方がいいと思っているが、そのことには諸論あるので、今は傍らにおいておく)。 次に、都市部(向こうの谷にある町にある程度近い、松江市、広島市、そして東京都)は、これから人口減と高齢化が同時に進行するので、このままいけば結構厳しい状態になるように思う。身近な松江市や広島市、東京都でも、2040年には人口はいまより約1割減り、高齢化率は10%上昇する。またそれ以降もこの人口減少と高齢化率の上昇は続く。いま私の暮らす町の病院に行くと通院されている方の大部分はお年寄りで若い人や子どもは殆ど見かけない。そして、ときおり私が田舎から都市部に仕事で行くと驚くのは若い人の多さだが、2040年には都市部もいまの田舎並みにお年寄りの多い社会になるという感じを持っている。 たとえ、これら都市部で経済力がいまの水準で維持されたとしても(これもかなり難しいと思うが)、例えば現在の水準で医療や介護制度や年金や、困ったときに利用できるような福祉制度は維持できるのだろうか。また、現在でも社会問題になりつつある空き家や空きマンションや空き団地、道路や橋や上下水道など老朽化するインフラへ十分な対応はできるのだろうか。仮に外国の方がこの国でいまより沢山働くようになっていても、田舎よりはるかに地域の支え合いがない都市部の社会関係の中で、1人の若者がいまより多くの高齢者を支えなくてはならない状況で、家庭でも職場での若い人への負担がいまの水準で留まるということがあるのだろうか。そのような中でその時代で子育てをする人達が普通に、ときおり心を静かにして、自分や家族を見つめ、社会の情勢を判断して暮らしていくことができるのだろうか。 仮に、いま高1、中2、小4の子ども達がこのような都市部に暮らし、家庭を持ち、子育てするとしたら、上に述べたような時代の渦の中で健やかに暮らしていくことはかなり難しいことだと考えている。 以上のことは全て予測に過ぎない。しかし、大切なのは、私や私の家族や私の友人達が、これから20年の間に、平安時代からずっと続いてきた人口増加傾向が終わり、はじめて人口減少と極度の高齢化といういままで経験したことのない社会の変化の渦中にいる可能性が高いと想像しながら、対応できるよう鍛えておくことだと思う。 いま子達と暮らしながら親として一緒に鍛えられることは何か。1つ目はできるだけ彼らが視点を高めと視野を広げるように手伝うこと、2つ目は暮らしをつくる力をつけるよう手伝うこと、3つ目は想定外の状況に対応できる身体と頭になるように手伝うこと、単純だが、そんなことではないか。 この3つのことについて、いい機会ですので少し、考え進めてみる。 ”視点を高め、視野を広げる”というと、知識を増やすとか経験量を増やすとか、旅に出して見識を広げるというイメージもあるような気もするが、ここで言うのは、例えば、「ご飯のあと片付けの時に自分のことだけではなくてそのあとのお母さんの台所作業のことにも気になる」とか、「ご飯を作るときに跡片付けのことまで考えてしまう」とか、「お皿とかコップが机の端にあり気になって置きなおす」とか、「机の角が小さな子の目の位置と同じ高さで気になる」とか、「気温や湿度の急な変化や、自分が近づこうとしている建物や茂みや、あるいは人になぜが違和感を感じてしまう」そんなことではないか。言葉や知識のことはあとでいい。身の回の人や諸物とその周りの様子にまで目がいっている。それが重要だと思う。 ”暮らしをつくる力をつける”とは基本的に自分の身近にあるもの、自分でその時点で使えるもので、その日を生きる環境をつくれることではないかと思う。「そのときあるものでおいしいご飯をつくる」とか、「料理しているとき包丁の切れ味が気になり必要があれば自分で砥ぐ」とか、「ゴミを堆肥にできる生ごみとその他のごみにせっせとわけられる」とか、その延長線上で、「いい堆肥とわるい堆肥や、堆肥の使い所がわかる」、「天気や地温や土の様子をみて種の播き時を考える」とか。「道具がないとき身近なもので代用する」、その延長線上で「なければ道具をつくるとか、自分のやりやすいように空間を改造する」とか、「身近なもので自分の暮らす場所をつくる」とか、「買って手に入るものではどうしても気に入るものがないから、自分でつくった」。何となく、少しずつ自分の手でできることを増やし、それを組み合わせてもっといろんなことができるようになる。そんなことではないか。 ”想定外の状況に対応できる身体と頭になる”については、私の一番苦手なことである。どうも身体をつくろうとすると、腹筋やマラソン的な発想になり、やっているとあちこち痛くなってきて長続きしないのだが、最近、本を読み、友人と話していると、自分が繰り返しやっている間違えとは、例えば動ける身体をつくることと筋肉つけることの違いや、身体をいじめることと長持ちする身体をつくることの違いがわかっていないことからきているように感じている。この春、遊びに来てくれた韓氏意拳を学ぶ友人がこう言っていた。「筋肉は数日で作り変えられるが、骨は数年、腱や関節は100年以上かけないと再生されないのに、筋肉のみを意識して負荷をかけるトレーニングやストレッチを続けるから、肩を壊すとか膝を壊すような一生治らないけがすることになるのではないかと」。「大切なのは自分の身体の声をよく聞くことで、身体を伸ばしていて痛いと思ったら、無理をして伸ばさす、どこが痛いかしっかり探っていくことだ」と。 内田樹先生は人の生き方や社会の捉え方について幾つもの本を書かれている著作家であり、自ら合気道の道場を主催される武道家でもあるが、『困難な結婚』という著書で、このようなことを書かれている。これは武道論ですが、”想定外の状況に対応できる身体をつくる”にも大いに通じることだと思うので引用してみる。 「武道の修行というと、体力をつけたり、闘争心を高めたり、格闘技に長じたりということをめざしているとお考えの方もおられるかもしれませんが、それは武道の修行の本来の目的ではありません。合気道に限らず、武道をいうのは、本来「どうしてもいいかわからない状況に立たされたときに、適切にふるまうことができる」能力を開発するためのプログラムです。…(中略)…「どうしていいかわからないとき」には様々な種類があります。天変地異に遭遇するときも、親しい人、愛する人を失うときも、あるいは仕事に失敗したり、病気になっとりしたときも、私たちは「どうしたらいいかわからない」という状況に陥ります。…(中略)…でも「どうしていいかわからない」場合でも、わかるひとは「とりえず何をすればいいか」がわかります。それは「失ったもの」を数え上げるのではなく、「まだ手元に残っているもの」を数え上げることです。不意に、たくさんの貴重なものを失ったあとでも、まだ私たちの手元には「価値あるもの、たいせつなもの、信頼に足るもの」がいくつか残されています。それを数え上げ、そのような価値あるものが自分の手元に残されたことにまず感謝し、それらその手元に残された資源を最大限に活用して、また新しいものをその場から作り出すこと。それが「どうしていいかわからないとき」の適切なふるまい方です。 武道はそういう状況に対応する心身の能力を高めるための、組織的な訓練です。武道では、「敵が襲ってきて、自分の心身の自由を損ない、可動域を制約する」という形で初期条件を設定します。…(中略)…武道の場合は、さいわいなことに、「相手」というものがあります。相手は私たちを攻撃し、私たちの心身の自由を損なうものであると同時に、私たちにまったく新しい動きの機会を提供してくれる存在でもあります。…(中略)…この「ひとりではできないが、相手が何かしかけてきたせいで、できるようになったこと」。これは「まで残された価値あるのの」ではなく、「いま、相手が私に贈ってくれたもの」です。武道的なつよさというのは、ある状況に置かれたときに、「自分にまだ残された価値あるもの」に「いま、相手が贈ってくれた価値あるもの」を加算して、それを素材に「まったく新しいもの」を創造する能力のことです。 これを「臨機応変」と呼んでいもいいし、あるいは禅の言葉を借りて、「随所の主となる」と呼んでもいいと思います。どのような状況に投じられても、まるでその状況を自分が進んで作り出し、選びとったものであるかのように、堂々と、余裕をもってふるまうことができる境地、それが私たち武道家のめざすところです。 …(中略)…私の師である多田宏先生は「道場は楽屋、実生活は本舞台」ということをよくおっしゃっています。道場は楽屋です。そこではどんな失敗をしても許されます。どんな実験的なことを試みても構わない。「道場では真剣な態度をとり、道場を一歩出ればリラックスする」のではありません。逆です。道場ではリラックスして、あらゆる状況に対応できる心身の能力を開発し、道場から一歩外に出たら、そこで学んだすべての技能と知見を活用する。(P109~112) こでの”武道”を”身体を鍛える”に置き換えて考えてみて、自分としての”想定外の状況に対応できる身体をつくる”ことについての基本的考え方が随分整理されたように思っている。そしてこれから武道を極めようとするのではな自分や家族(たぶん)にとって、どういう鍛え方があるか探っていこうと思う。そして、まだ始めたばかりで、とてもお話しできる状況にはなっていないが、鍛えることについて、友人から教えて頂いた型を基に新しく鍛える試みをはじめた。これが、家族や親しい人達のこれからの時代のリスク管理や柔らかく暮らしていくことに繋がるといいなと考えている。
by mukouno-tani
| 2017-06-01 10:56
| 野研ノート(家族)
|
ファン申請 |
||