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拝啓 森の花畑の守人様
9月16日 一昨年植えた、アキチョウジ、アキギリ、ヒヨドリ草が一斉に咲きはじめました。この庭は家の北西側にあるのですが、明るい木陰でよくみかけるこの植物達には程よい日の射し方のようで、いい草形に育っています。もうすこし日当たりのよい、家の西側の庭に植えたアキチョウジは少し葉焼けもし、徒長気味なので、そう思うのです。 今年の夏は、日をおかず雨の降る、畑や庭の植物にもとても酷な天気が続きまた。向こうの谷の家の畑の夏の作物もそうですが、かみさんが集落の他の家の野菜も育ちが悪いってよと話しています。山の中の植物の状況も例年と違うのでしょうか。他の地域でも田や畑に猪が入ったという話もよくお聞きしました。 向こうの谷の家で夏に植え付けた野菜の中で比較的育ちがいいのが、F1ではない種を、自家製の堆肥と山の土で作った培養土で苗にしてから植えた大豆とトウモロコシです。大豆は島根県の奥出雲町という町で自然農法を30数年やられている農家さんが自家採取されていたものを頂いたものです。トウモロコシはスイートコーンではなく粉にして食べる品種を野口のタネさんから購入したものです。このような野菜達の逞しさは根の育ち方にあるのではないかと考えています。合成化学肥料の使用や一定の日照量を前提に育種されたF1等の種と異なり、低窒素の土壌や市販の肥料よりはるかに窒素分の低い植物性の堆肥で育てられることの多い野菜の地種は土中から栄養分を得るためよりしっかりと根をはるようです。また、合成化学肥料の入った栄養豊富な培養土で最初から苗が育てられると、初期の段階でしっかり根が張れないそうです。 このことは、他の野菜でも種をとってみたりしながら確認していきたいと思います。奥出雲町の大豆は雨のたびに身を太らせているように思います。 8月の後半に入ってから、向こうの谷の家で新しい試みをはじめました。家の隣の物置倉庫を、工作の作業場と、保存用の山菜や野菜の下茹でや染色などに使う大鍋が掛けられる焚き火炉のあるスペースに改造してみようと思っています。倉庫は稲作関係の機械・道具置き場と牛小屋として使っていた張り出し部分からなっていたのですが、牛小屋部分が2年前に雨漏りによる木腐れと雪の重みでつぶれ、以降、荒廃した状態になっていました。 その壊れた小屋の廃材や古道具、古家具・家電を整理して、新たに屋根だけを葺き、雨天でも薪火を使える場所にしてみようと考えています。機械・道具置き場は機械や道具を整理して、いま住んでいる家の工作部屋をそこに移したいと思っています。というのも、子ども達が中学生、小学生高学年となり、そろそろ家の中にもう一部屋いる様子になってきたことと、工作部屋も手狭になりもう少し広いスペースがいるかなと考えはじめたからです。 新しい子供部屋は、天井を張り、壁を塗り、床の土台を作り、床板を張る作業を、子ども達と一緒にやることを考えています。 ともあれ当面は、牛小屋跡の片づけと廃材を薪にする作業です。釘も多く、チェンソーも入れられないので、当面はこつこつノコギリで切っては薪棚に積んでいます。少しずつ、急がずやっていきたいと思っています。 それと、随分前ですが、戦後の行政の仕組みの問題点やその問題を生じさせるメカニズムについて実践的研究者の先達達のまとめた研究を少し紹介してみたいと書いたと思います。さかのぼって調べてみれば、それは去年の11月のことでであり、それから早1年が経ったのだということに少し驚いています。それは次のようなものでした(拝啓 森の花園の守人様十九)。 『10月から11月にかけて、ここ数年、信じられないような忙しさに埋もれているのに気がつきました。…振り返れば、今年も、忙しいときにかかってきた電話に、熟考しないで生返事した依頼事が、準備をはじめると、とてつもなく時間がかかるものとなったことが幾つもありました。 考えずに返事することがまずいけないことだと思います。他方、…問題は、依頼人が行政など大きな組織の人であり、依頼が仕事上でのことの場合、そのことがそれで終わることが多いことです。人事異動で、去年、その場面を共有した依頼人は突如いなくなり、新しい人が新鮮なことのようにそれを依頼するようになります。 このように組織の属性で判じた様にいうことはいけないことだと思います。どの組織にも …前向きに積み重ねている方は沢山います。しかし、依頼事が、そのことで終わり、時間と費用をかけた努力が組織に経験やノウハウとして蓄積されず、本人のそれからの職務にも繋がらないことが多ければ、…関わるすべての人に…、そして社会に対し、とても刹那的で消費的な時間の使い方だからです。 それが仕事の事だから、担当の期間だけだから、それが組織の当たり前だからと、自分の当たり前してはならないと思うのです。今は、どうしようもないほど大きく、変え難いものだとしても、それを自分も関与している社会に大きな影響のある課題として認識しなくなってはいけないと思うのです。これは、戦後、いや江戸時代まで遡り、行政組織や大企業を含め、人事異動をはじめとした公の人に関わる仕組みが生み出してきた問題ではないかと思うです。それがいままで何を生じさせてきたか。梁瀬義亮先生やアルバート・ハワード先生や有吉佐和子さんが対峙してきた、そして今でも免疫の過剰反応で子ども達を苦しめ、生態系に影響を与え続けている農薬禍や化学合成農薬ではなかったか。それを世に敷衍したメカニズムとは、その普及を私事とは切り離し、仕事として進めることができる人を生み出す、公の人事制度という仕組みではなかったか。それが、福島を生み出し、そして、いま更に、次世代にとって取り返しのつかない、恐ろしいものを生み出そうとしていないか。 守人様 …宮本常一先生やアルバート・ハワード先生など先達達は、公の組織に歴然としてあり、…不可侵の領域として改革できない、…世に対し大きな影響をもたらしてきた、しかも組織外の人にはとてもわかりづらく見えにくい、このメカニズムについて、分析し、そして記述を残しておられます。 …今は、私にとっても、このメカニズムについての認識の整理と論理的な理解が必要なことだと思います。これから、折をみて、少しずつですが、先達達の書いたものを再読し、自分なりに整理していってみようと思います。』 さて、2014年10月1日現在の私は昨年の11月と比較してどうか。相変わらず時間に追われているし、行政組織からの依頼の数も多いですが、依頼内容が大まかなまま仕事を受けることは原則なくなってきていると思います。仕事を受ける前に必ず相手の目的や内容をかなり詰めますし、その結果、仕事後もいい関係性が生じることも多いです。これは改善点かもしれません。 次に、公の組織についての先述した問題意識については、さらに強くなっています。 誤解を恐れずいえば、子育ちや家族や地域や、食べ物や燃料や住まいや風景や、農林業を含めた業など、人が豊かに暮らすに必要な基本的要素が必ずしもよくない今日の我が国の状況に、そのことがかなり影響していると考えを強めています。 そこで、昭和47年に書かれた宮本常一先生の著書『村の崩壊』を読み返してみました。昭和20年代後半から昭和30年代にかけて、行政組織や大学研究者により農山村部に何か起こされ問題について詳細に描写されています。そこで、ここから、昭和20年後半k”戦後の行政の仕組みの問題点やその問題を生じさせるメカニズム”についての整理をはじめたいと思います。 ・私の親しくしている篤農家たちは「いまにきっと機械化時代が来る。そのときそのことを怠っている農村が必ずいき詰る。米価の補償をやめて、その金を設備投資にまわすようにしなければならない。しかし農協が反対している。農協が農民の団体でなくなり、米の供出機関になったことに問題がある」と話し合っていた。これは非常な達見である…(p231) ・いつの間にか篤農家たちの指導力は弱まってきて、新しい農業指導体制がうまれつつあった。…昭和二十三年に農業改良助長法が公布せられ、農業改良普及員がおかれた。農業技術の指導はその方が力が強くなりつつあった。そしてパラチオンやビニールはこの普及員たちの力によって広がっていった場合が多かった。(p232) ・戦後きわめて意気盛んであった農民たちのうち、篤農家といわれる人びとの発言が目に見えて弱くなって来たのは、昭和二十七、八年頃からであるが、それにかわって大学の先生や官僚たちの農村指導が目立ってくる。その人たちは、日本の経済状態、農業の占める経済的位置、農業の見通し、かしこい農業と称して農業経営の合理化を説いた。しかし農民たちは次第に覇気を失っていき、新指導者の指向する方には必ずしも進まず、逆に指導者たちの指向とは反対の兼業農家が増えていった。(p236) ・一番大きな原因は、農村におけるいろいろの組織が官僚化していったことではなかっただろうか。官僚組織では責任は個人が負うものではなく、組織が負う。だからその地位にあるものがその地位を去ってしまえば、もはや責任はなくなる。二年か三年その地位にあるあいだは努力していても、地域を去るとその人に期待することはできなくなる。どのため指導がきれぎれになってゆく。指導といっても、手にとって教え遠い将来を約束してくれるようなことはほとんどない。これを受ける側の農民はいつまでも同じところに、同じように暮らしている。(P236) ・農林省が補助金を出してビート栽培を奨励したことがあった。そのことについてある代議士が、渋沢先生の所へ相談に来たことがある。先生は「ビート栽培はやめておく方がよいだろう。かならず失敗する。失敗することがわかっていても、それを推進しようとする人の点数になる。そして失敗がはっきりする頃には、その人はその地位にはいないはずだから、傷つくことはない。農林省の施策にはそういうものが多すぎる」とその代議士に話していた。結果はその通りであった。(p236) ・酪農にしても蔬菜栽培についても、その他いろいろの奨励が補助金をつけておこなわれたが、多くは中途半端であった。それが農民の視点をばらばらにし、落ち着きないもにしていった。何よりも不幸は、古くからの農業指導者たちが、第一線から身をひいていったことであった。(p236) ・…農民として生きていくための目標が次第に失なわれ、むしろ兼業化が進み、男はサラリーマンになり、女が耕作するものが多くなっていった。(p236) 守人様。公の組織の問題点は昭和20年代からあまり変わっていないように思います。そして根本的問題は、その体制が40年の間改善されてこなかったことにあるのではないでしょうか。そしてそれは人や組織が起こす問題である限りは、客観的にその問題発生のメカニズムを理解できれば解決しうる方法はあるはずなのに、一部の先達のほかは、なぜかそのことに取り組まなかった。そう思うのです。 しばらくの間、引き続きこのテーマを考えていこうと思います。 このお便りを書き始めてからはや2週間が経ち、10月に入りました。北の庭では満開のアキチョウジの周りに金木犀の小さなオレンジ色の花が落ち、はっとするほど美しいです。塀につたって広がりはじめた夏蔦も少しずつ色づきはじめました。 あと1カ月で本格的な紅葉の季節がやってきます。冬前の庭の手入れの季節ももうすぐです。
by mukouno-tani
| 2014-09-16 07:09
| 子育ちと環境
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