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遠く離れた実家に所用あり、週末の夕方向い、翌日の夜に戻ってきた。車で片道6時間。この距離以上に、この地と彼の地の間を隔てるものは大きい。気候も植生も、食べ物、土地と人との関わり方も、人と人とのコミュニケーションのあり方も。進学に伴い、実家を発って20年余。転々と過ごしたのが各地から人が集まるボーダレスな所であったからか。私が熊本市内のかつての新興住宅地の核家族サラリーマン世帯に育ったからか。学生であった頃も、大阪に働いた頃も、育った所をこんなにも特徴ある所とは意識できなかった。
それと気づいたのは、富山に実家のあるかみさんと一緒になったからか。3人の子達をこの地で育てているからか。3年前から集落に家を借りて暮し、かつてなく自然や島根の土地にしっかりと足を踏みしめている方々と関わらせていただいているからか。 私(達)は、ルーツレスに近い状態から発ち、ボーダレスな地を経て、ご縁を得てルーツを持つ方々と関わり・暮し、故郷を意識するに至った。生きるに故郷とは何かを意識しながら子育てをする時間を持つに至った。これは、とても幸運なことだと思う。 この地で、この地の人や自然と深く関わりながら育っている子達はどうだろう。きっと私(達)の経たプロセスとは全く異なるはずだ。かれらは、どう故郷を意識し、自分のルーツを自覚するに至るのだろう。 先日、かみさんが、ある地元のコミュニティーマガジンを持ってきてみせてくれた。裏表紙にこの地に生きた明治期の若者達の旅装束の写真があり、このような説明がある。 明治23年1月4日(旧暦)、地区の若者有志10人がお伊勢参りに出発。出発前に地の神社で、水杯を交わす。同日、広島県境近くの島根のある地に集合した一行は徒歩と船で伊勢を目指し、4日目には川辺(岡山)に到着。翌々日には船で赤穂(兵庫)に着き、高野山などを巡り15日目には伊勢山田に到着。帰路は京都から帰社、大阪から船で讃岐の金比羅宮、安芸の宮島を回り、2日2日に無事帰着。 この地でもそうだったのかと思った。 宮本常一の「庶民の発見」には、終戦翌年、伊豆のある町で70歳余の老人から聞き取った伊勢参りについての記録がある。「「あのころまでは日にちはいくらかかってもよい時代で、気のあうた者同士で思うままに歩いてきた」・・・そのもう一時代まえにはみんな徒歩で伊勢までまいったのである。娘たちも嫁入りまでには半数が伊勢参りをしたであろうとのことであった。」 同じく宮本の「中国山地民俗探訪録」には、私達の隣町でかつて行われていた宮島参りについての聞き取りの記録がある。「男は20歳までに宮島参りをした。これが旅出の遠いものであった。6月17日の宮島の祭につけるように、四、五人で組を組んで村を出かけた。・・・女たちもトギを構えて参った。三坂峠にのぼると、これで石見も見納めだと涙をこぼしたものであるという。旅から戻ってくると坂迎えをした。迎えて戻って氏神で酒盛りをした。」 人々が安全に旅ができる環境が整ったのも、また伊勢参りはじめ地方からの参宮が本格的になったのも江戸時代に入ってからで、参宮は昭和のはじめまで各地で続いたらしい。また、参宮の費用を工面するため、多くの村で参宮講(村民による積み立て)が行われていた様である。 要は、私の暮らす町でも70~80年前までは、若者を1ヶ月近く旅に送り出す仕組みがあったらしい。 旅する若者達。このフレーズと結びつくのはなぜかストックホルムのユースホステルでみた、旅するヨーロッパの若者達の姿である。 10代後半であったと思う。同室になった若者達は別の国々から来ていて、「どこのクラブがいいよ」といった他愛もない会話をしていた。そして夜になると意気投合して街に繰り出していき、翌朝には大きなリックサックを背負って旅立っていった。同じような光景をコペンハーゲンやミラノのユースホステルでもみたことがある。彼の国の若者達は、若者達だけで旅をし、思うがままに異国に見聞し、他の所の人々と交わる時を比較的普通に持つらしい。そう思った。 これまでユースホステルと殆ど接点を持たずにきたかもしれない。若者達の旅の環境としてある各国各地のユースホステルの背景に興味を持ち少し調べてみると、「若者達(子ども達)が旅できる環境が必要だ」と考えた、大人達の運動の先にあるものらしい。提唱者はリヒアルト・シルマンというドイツの小学校教師。自らの経験に基づき1900年初頭から、その必要性を主張し、学校や教会や城等の一角を若者の旅の際の宿泊場所として開放することを呼びかけることに始まる。そして、現在、その運動は、ヨーロッパ、アメリカ、アジアへと広がり、YHは62カ国、約5500ヶ所に展開されているとのことである。 商業化されていることも自覚できないほど、経済と結び付けられてしまった現在のツーリズムの本義、原点に近いものだと考える。 「かわいい子どもには旅させ親御、憂いも辛いも旅を知る」という歌がある。色んなことを心配したであろうが、伊勢への旅に若者達を送り出し続けた、かつての私の町の大人達。そして若者達の旅が必要だと旅する社会環境づくりに奔走した彼の国の人達と、いま彼の地で青年を旅に送り出している大人達。そしてその理解に見守られながら、旅する若者達。背景もスケールも異なるが、伊勢に旅する若者達と欧州にリュックを背負って若者達が重なってみえたのだと思う。 そして、特別な仕組みもつくることなく、大人達と地域と社会の自覚の中で、それが成立していたわが国のかつての状況は、より洗練されていたのではないかとも考える。 少なくとも40年前わが国が高度経済成長に突入した頃は、まだ、旅する若者達を受容する環境があったようだ。岡野正美氏の「焚き火小屋の備忘録」(ブログ)にこのような記録がある。 四十二年前。十七才だったころのわたしは、期せずして、宮本(常一)の後を追うかのような旅した。自転車の旅である。 1964年の東京オリンピックの後、日本サイクリング協会(Japan Cycling Association:JCA)が財団法人として認可されるなど、それ以前に軽便な荷物の運搬車として広くブームになっていた自転車が新しいスポーツ文化のツールとして認知されたのだろうか。いわゆる、第二次サイクリングブームが起こった。そして、それは、そのままにわたしの十代後半に重なったのだ。 また時代は、いわゆる団塊の世代が義務教育を終え、「金の卵」と呼ばれて続々と都市に吸収された時代でもあった。つまり、団塊の世代の直後を、さながら彼らの弟のように生きたわたしは恵まれていたようだ。FENから流れるBob Dylanに影響され、H・D・ソローの「森の生活」に憧れつつ宮本常一やイザベラ・バードの軌跡を旅したのだった。 ・・・この時代を、いわゆる経済という価値観に照らして捉えてみれば、確かに貧しかったに違いない。だが、・・・未だ十代半ば過ぎのわたしに、いわゆる無銭旅行にちかい青春の彷徨を許した地域社会の文化とは、本当に貧しかったのか!。かつて、子どもたちの育ちの支援環境としての農山村地域は、いまに比べて、比べようもないほどに豊かであったとわたしは理解する。 旅する若者達とそれを見守る大人達。少なくとも、いま41歳であり3人の子達の親である私の、私の周囲の10代にはそれは希薄だった様に思う。他者に企図された修学旅行とも観光とも現在のツーリズムとも異なる、自らの旅・自らの冒険。 私は、育った実家を発ち、20年余かけて、転々とし、幸運にも島根にたどり着き現在、故郷、ルーツを意識しながら暮らし、子育ちに関わる様になった。これもルーツレスに端を発した長い長い旅であった(無自覚に成長のプロセスの中で発動された旅立ちのだったのかもしれない)。 そして、この地に深く関わりながら育っている子達の旅はまた異なるものになるであろう。 ルーツを持つ若者達の旅。ルーツを持たない若者達の旅。 いずれにしても旅してほしい。たとえとても長く、時にはつらい旅であったとしても、必ず暮らしや子育てや周りの人々や自然や暮らす地域との関わりを豊かにするから。そして生涯の仲間と出会えることも多いから。 旅する若者達。そのためには何が必要か。何か大掛かりな仕組みや仕掛けをつくる必要があるのか。否だと考える。まず何より必要なことは、何者にも企図・指導されない若者達の旅に必要なのは自分(達)の旅であること、大人・地域・社会は理解し見守る立ち位置にあること。このような旅の理念と倫理ともいえるものが、できる所からででもきちんと議論され共有されること。かつてのユースホステルが広がっていった様に、仕掛けや仕組みなら、小さい単位から国単位まで既に沢山あるのだから。 旅する若者達。いまはかつてでは考えられない子ども達に降りかかるリスクもたくさんある。そのことも踏まえながら、子達がその時期になったとき、私達が何かできるように少しずつ考え・動いていこう。
by mukouno-tani
| 2010-03-18 07:07
| 野研ノート(地域)
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